May 10, 2012
SOMETHING
何か書かなきゃという気持ちだけで、ブログを開いてみる。
一向にブログが苦手なのは、それが知らない誰かに開かれているからだろうし、
それがキーボードで打ち込むものだからだろうし、
ブラインドタッチが速いのはいいことなんだけど、
指先からことばがするすると逃げていく感じがして、うまく思考できない。
濁流のような文章になるけど、その分正直でもある。
正直、ねえ、、、
最近は、しあわせ、しあわせ、ってずっと繰り返してる気がする。
ああーわたししあわせだーとのんきに叫んでるわけではなく、
「ああやったらしあわせになれる!」
「こうやってるからしあわせになれない!」
「まあ所詮しあわせなんてこの程度!」
「このしあわせ一生とっときたい!」
こんな調子で、しあわせっていう概念、状態、現象に対していつまでもあーだこーだ言ってる感じ。
今あるものがしあわせかどうか、これから先自分に待ってるものがしあわせかどうかっていうことが、どうも気になって仕方がないらしい。というか気になって仕方がない。
ICU高校の入学試験は三教科70分。
国語は長文が二つに古文がちょろっと。
当時、帰国子女として一番の売りであるはず英語よりも、さらに国語の方が偏差値が高いという秀才JCだったわたしにとっては、70分もあれば精読できる量だったのね。(今から考えると信じられない。笑)
で、その年の受験問題の長文の主題がまさしく「幸せ」だったわけですよ。
細かいことは忘れちゃったんだけど、その中にすごく今でも印象に残ってる一文があって。
それが、、
「私は幸せとは何ですかと問われたとき、それは幸せについて考えていない時間だと答えます。」
筆者はつまり、しあわせってのは引き算の結果なんだっていうことを言ってたんだと思う。
不幸が存在しない状態がしあわせなんだと。
人は不幸に陥ったとき、あーしあわせになりたい、って考える。
その時とはつまり、なにかが足りない状態、満たされていない状態であり、だからこそしあわせを求めるのだと。だから逆説的に、それ以外のしあわせについて考えていない時間、それは満たされている状態、欠けていない状態であり、つまりしあわせなんだと。
これを読んだときすごく納得したのを覚えてる。
あーそうかもしれない、って。
というよりも、その考え方を採用すれば、容易くしあわせになれるって思ったのね。
だって不幸の不在がすべてしあわせだったら、すごくしあわせだと思うもん、わたし。
でも今、あまり共感できなのは、不幸の不在以上のしあわせを経験したことがあるような気がするからだと思う。
「あー今しあわせ!」と、何かの喜びに、もしくは感動に、はたまた快楽に、「しあわせ」という名前を自分でつけてしまったから、もはや不幸の不在をしあわせとして信じることができなくなってしまったわけです。
あーもったいない。
もったいないと思うでしょ?
しあわせは不幸の不在から、喜びを強いる強迫観念へと生まれ変わったのでした。
あきほがこないだしてくれた話で、ママ友同志のいじめっていうのがあった。
子供を幼稚園や保育園に通わせはじめた母親同士がコミュニティーを作って、その中で中学生顔負けの幼稚、かつ卑劣ないじめをしているという内容だった。
たとえば、、
持ちよりパーティーを開いては、いじめられている対象の母親の料理に一口も手をつけずに、本人の前でゴミ箱に捨てたり。
小学校受験をして落ちてしまった子供の親が、受かった子供の親になりすまして学校に電話し、その子の入学を辞退すると申し立てたり。
その母親の旦那が女の人と浮気している現場に遭遇したという噂を流したり。これは実際離婚するに至ったケースもあったらしい。(本当に浮気してたっていうことが裏であったらしいけど。笑)
その話を聞いて思ったわけですよ。
「どうして、大人になってまでそんないじめができるくらい、不幸になってしまったんだろう?」って。
だって、小学校受験ができる子供の家庭だったら、それなりに経済状況も悪くないだろうってことが考えられるし、そもそも子供がいるってことは、少なくとも一度は愛したことのある男性との間に命を授かって、家庭を築いてってことを達成できているわけでしょ?
その形をひとつの夢として抱いてる女の子だって少なくないはずじゃん。(わたしは主婦は絶対いやだけど。)
それなのに、どうして彼女たちはそんなに不幸になってしまったんだろう、と、
いじめそのものよりも、彼女たちをいじめに駆り立てる不幸にわたしは恐れをなしたのでした。
不幸には絶対なりたくない。絶対しあわせになりたい。
こんな調子で、毎日人や自分の不幸・しあわせを前にして頭抱えてるわけ。
そうやってしあわせってなんだろう、って、しあわせになりたい、って思えば思うほど、
自分が窒息していくのもわかるし、しあわせそのものから遠ざかっているってのもわかってる。
はっきり言って、しあわせっていう言葉自体を手放した方が、きっと、よっぽどしあわせ。
それでもその言葉に固執するのは、やっぱり、しあわせを知ってるからじゃないかなーと思う。
しあわせというレッテルの下にあるものが、本当にしあわせかどうかという議論はここでは不要。
わたしはやっぱり、結果として欠けている状態へと導かれるとしても、この「しあわせを知っている」という感覚は、なにものにも替えられないしあわせだと感じるのでした。
論理矛盾?
おわり。
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