さて。
今日は、今日の文章を書く代わりに、去年書いたCS入門のレポートを貼る。
さぼってるわけじゃなくて、今朝乙武さんがツイッターでリンクを貼ってた、国会議員の片山さつきさんと下村博文さんのブログを読んだら、ざわっと一気にそのレポートのことを思い出したから。
(それぞれの名前からブログに飛べます。読んでみそ。)
そのカルチュラル・スタディーズ入門の期末レポートのテーマは、
「今学期この授業で学んだこと全般」っていうざっくりしたものだったような気がする。
字数は2000字。
田仲先生が、「形式はなんでもいいぜーできるもんなら俳句だっていいぜー」って、
いつものあのちょっとキザな感じで言ってたのを覚えてる。
で、できたレポートが以下。
はたちになる直前のわたしが抱いてた不安や恐怖のすべて。
それをレポートにして提出したってのも、おかしな話。
今読み返すとすごく拙い文章だけど、今朝はその恐怖を思い出した。
田仲先生は、これにAをつけてくれた。
では今日はこれで。
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カルチュラル・スタディーズ入門:期末レポート
わたしの言葉で述べる。
カルチュラル・スタディーズとは、自分の立っているところから見える世界を語ることである。それ以上でも、それ以下でもない、と学んだ。リチャード・ホガートはイギリスの労働者世界を、スチュアート・ホールは黒人の若者世界を、田仲教授は沖縄を。それぞれが、自分の身体が生きた世界を語り、そのために必要な言葉を模索した。
それでは、わたしの世界を語る。
その前に、わたしを語る。
わたしは、東京に生まれた。
わたしは、一九歳である。
わたしは、運命の存在を信じる。信じることで与えられる、言い訳や解釈に依存する。
わたしは、女性である。背は高くない。
わたしは、あまり多くを信じない。しかし、自分の目で見たものを疑えない。
わたしは、言葉ではなく、台詞を吐く傾向にある。
わたしは、優しくない。
それでは、わたしの世界を語る。
わたしの世界には、わたしの弟がいる。
彼は、おととい一三歳になった。
しかし、彼の知能は未だに五歳に満たないという。彼は、自閉症である。
弟は毎日学ランを着ていても、叱られるとすぐに泣く。涙が出る。
弟は野球が好きだ。食べることが好きだ。勝つことが好きだ。母が好きだ。
弟は、毎日風呂を洗う。
わたしの世界は、一三歳の五歳児によって、狭くも広くもなっている。
わたしの母は、優しい人だ。
しかし、彼女の優しさは半径一.五メートルしかない。
母の優しさは、弟の立っているところより、広がっていくことはない。
それでも母は、優しい人だ。
彼女は、自分の優しさより外に立っている人にも、優しくあろうとする。
彼らを自分の半径一.五メートルの円の中に押し込むことで、優しくなろうとする。
こうして力づくで人に優しくしようとするとき、母はわたしにこっそり言う。
「きっとあの人も、なにか知的障害があるのだわ。」
母はとても優しい人だと思い、わたしは悲しくなる。
わたしには、将来やりたい仕事がたくさんあった。
その時放送されていたテレビドラマに、いちいち影響された。
しかし、それらテレビドラマの世界が、わたしの世界になりえないということに、突然気が付いた。
わたしの世界は、半永久的に、わたしの弟がいる世界だと実感した。
わたしの世界の仕組みは、彼に生活を与えられる仕組みでないといけないと思った。
そのとき、わたしは、わたしの世界の狭さに悲しくなった。
そして、悲しくなった自分に「死ね」と言った。
母は、優しい人だからすぐに気が付いた。
母は、弟のことは心配しなくていいと言った。
自分と父が生きている間は、自分たちがいるから大丈夫だと。
そして、自分たちが死んだあとは、世の中が弟に生活を与えてくれると。
世の中が面倒を見てくれるから、わたしは好きなだけ世界を歩き回ればいいと言った。
そういう世の中でなくてはならないと、自分は信じていると、そう言った。
わたしは、母から一.五メートル以内のところに立っている自分を意識した。
母には、わたしより向こう側は見えない。
母には、わたしの立っているところから見える世界は見えない。
世界は、そんなことを約束してはくれない。
ある日、弟が「死ね身障」とつぶやいた。
弟が五歳児であることを思い出してほしい。
五歳児に、一体誰がそんな言葉を教えたのだ。
誰が、わたしの弟と同じクラスの多動の少年に、「お前なんか、堕ろしちまえばよかったんだ!」と叫ばせるのだ。
わたしの立っているところから見える世界には、そういう言葉があふれている。
しかし、世の中に暮らすほとんどの人は、それを知らない。
もしくは、メディアを介して味わっている。知ったつもりになっている。
冷凍保存された感動秘話を、レンジで解凍しては、消費している。
世の中は、消費者に便利にできている。
しかし、彼らの世界に、わたしの弟はいない。
彼らの優しさは、弟にまで届かない。
母の優しさは、半径一.五メートル。
彼らの優しさは、奥行き七〇センチ。冷凍庫ひとつ分の貯蔵力。
想像力が及ばなくなったところで、世界は地平線を最後に途切れる。
津波の映像は、テレビのこちら側の人々をPTSDになるまで追いこんだそうだ。
しかし、一〇〇〇回目の津波が東京で流れたときから、津波の映像は途端に色になった。
放射能は最初から、概念だった。
東京人の優しさは、テレビの前でこたつにもぐった。
弟の誕生日には、おもちゃを買った。
彼は、母と嬉々としてトイザラスへ行った。
あのひっくり返ったRは好きじゃない。
好き嫌いでものを言うのも好きじゃない。
弟は、父と母に挟まれて眠る。
和室にはこうして三本の優しさが横たわる。
わたしの世界は、となりの部屋で震える。
わたしは、レインマンを観ても笑えない。
わたしは、死ぬまでに宇宙に行きたいと思っている。
公立中学校の英語の教科書は、そんな覚悟を人にさせる。
宇宙から地球を見ない限り、わたしは地球に優しくなれないと思った。
わたしの世界もまた、半径一.五メートル。
(1,990)
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