May 22, 2012

APPOLO


月食の夜。
月がみるみる黒い影にのまれていく。月はますます赤くなっていく。
ベランダからぐっと身を乗り出して、双眼鏡をのぞきこんだままの姿で、母は、「あの影が地球だと思うと感動するね…」と静かな声で言った。
そうして、わたしに双眼鏡を手渡した。
母は夜空の暗闇に溶けこみ消えていく影の中に、はっきりと地球を見たのだった。
それまで、赤く欠けていく月にばかり目がいっていたわたしの中で、すとんとそのことばが胸の奥の方へ降りていった。

母にそう言われるまで、わたしには地球が見えなかった。

地球に生きているわたしたちにとって、地球は月よりも太陽よりも遥かに遠い星なのかもしれない。母は、自分の生きている星の丸さを、はじめて自分の目で確認したことに感動していたのだった。


金環日食の朝。
母は例のごとく大張りきりだった。
金環グラスは二つも買って、みんなの分のおにぎりを握って、レジャーシートと曇ってしまったときのためのピンホール式段ボールまで用意して、弟を連れて、河川敷へ向かった。
わたしは案の定寝坊して、ふたりにおいてかれる形で、小走りであとを追った。
くもり空の向こうでは、太陽がもう欠けていた。
河川敷の段々芝生に座ると、もうあと15分くらいで金環日食の瞬間を迎えるような時間だった。
母は「なんか、寒いね」と言いながら、弟におにぎりを手渡し、わたしにはグラスを手渡し、自分も空を見上げた。周りにはわたしたちと同じように、金環日食をひと目見るためにと、早起きしてきたひとたちでいっぱいだった。誰もが上をちらちら見ている。
「ちょっと暗い気がするけど、気のせい?」「ワンセグで中継も見てみよっか。」
母はせわしなく、楽しそうだった。

そして、金環日食の瞬間。
太陽は金色の輪っかになっていた。
丸い太陽の前に、丸い月が重なり、光の輪だけが残る。
宇宙のずっと遠くの方で太陽が燃え、月が回転する中、そこからずーっと線を引っ張ったところにわたしたちはいた。
みんながグラスをかけて、上を見あげた。
空を。太陽を。
いつも、見あげているようで、見ることのなかった太陽に初めてお目にかかった。


「月があんだけ重なっても、世界はこんだけ明るいんだから、太陽は偉大ね。」
母はまた何やら感慨深くなっているようだった。わたしも太陽を見あげる。本当に輪っかだ…。


日本全国が注目した天体ショーは、月がゆっくりと太陽の前を通りすぎていくことによって、終わりを迎えた。
さっきまで上を見あげていたひとたちも、みんなぽつぽつと家に帰る。幼い子供もいる家族、制服姿の中学生、おじいちゃんおばあちゃんカップル、でっかい一眼ぶらさげたおっさん。わたしたちも帰る。


「お父さんも、金環日食見たかな?」
「見てないわよ、どうせ仕事。」



母は月食の夜、空を見上げて、そこに地球をみた。
日食の日には、影りゆく太陽ではなく、世界の温かさを思い出した。

その日、わたしにとって、宇宙の遥かかなたに目をやることは、隣に座るひとのこころに思いをはせることとなった。いつもとなりにいてくれることを、どういうわけか忘れがちになってしまう、そのひとのこころに手を伸ばしてみたくなった。


こころは太陽よりも遠いのであろう。そして、もっとずっと近いのであろう。
弟の手をとり歩く母の姿に送れぬよう、少し歩くペースを速めた。





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