May 28, 2012

SPACE


さて。
今日は、今日の文章を書く代わりに、去年書いたCS入門のレポートを貼る。
さぼってるわけじゃなくて、今朝乙武さんがツイッターでリンクを貼ってた、国会議員の片山さつきさん下村博文さんのブログを読んだら、ざわっと一気にそのレポートのことを思い出したから。
(それぞれの名前からブログに飛べます。読んでみそ。)


そのカルチュラル・スタディーズ入門の期末レポートのテーマは、
「今学期この授業で学んだこと全般」っていうざっくりしたものだったような気がする。
字数は2000字。
田仲先生が、「形式はなんでもいいぜーできるもんなら俳句だっていいぜー」って、
いつものあのちょっとキザな感じで言ってたのを覚えてる。

で、できたレポートが以下。

はたちになる直前のわたしが抱いてた不安や恐怖のすべて。
それをレポートにして提出したってのも、おかしな話。
今読み返すとすごく拙い文章だけど、今朝はその恐怖を思い出した。



田仲先生は、これにAをつけてくれた。



では今日はこれで。






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カルチュラル・スタディーズ入門:期末レポート



わたしの言葉で述べる。
カルチュラル・スタディーズとは、自分の立っているところから見える世界を語ることである。それ以上でも、それ以下でもない、と学んだ。リチャード・ホガートはイギリスの労働者世界を、スチュアート・ホールは黒人の若者世界を、田仲教授は沖縄を。それぞれが、自分の身体が生きた世界を語り、そのために必要な言葉を模索した。

それでは、わたしの世界を語る。

その前に、わたしを語る。

わたしは、東京に生まれた。
わたしは、一九歳である。
わたしは、運命の存在を信じる。信じることで与えられる、言い訳や解釈に依存する。
わたしは、女性である。背は高くない。
わたしは、あまり多くを信じない。しかし、自分の目で見たものを疑えない。
わたしは、言葉ではなく、台詞を吐く傾向にある。
わたしは、優しくない。

それでは、わたしの世界を語る。

わたしの世界には、わたしの弟がいる。
彼は、おととい一三歳になった。
しかし、彼の知能は未だに五歳に満たないという。彼は、自閉症である。
弟は毎日学ランを着ていても、叱られるとすぐに泣く。涙が出る。
弟は野球が好きだ。食べることが好きだ。勝つことが好きだ。母が好きだ。
弟は、毎日風呂を洗う。
わたしの世界は、一三歳の五歳児によって、狭くも広くもなっている。

わたしの母は、優しい人だ。
しかし、彼女の優しさは半径一.五メートルしかない。
母の優しさは、弟の立っているところより、広がっていくことはない。
それでも母は、優しい人だ。
彼女は、自分の優しさより外に立っている人にも、優しくあろうとする。
彼らを自分の半径一.五メートルの円の中に押し込むことで、優しくなろうとする。
こうして力づくで人に優しくしようとするとき、母はわたしにこっそり言う。

「きっとあの人も、なにか知的障害があるのだわ。」

母はとても優しい人だと思い、わたしは悲しくなる。

わたしには、将来やりたい仕事がたくさんあった。
その時放送されていたテレビドラマに、いちいち影響された。
しかし、それらテレビドラマの世界が、わたしの世界になりえないということに、突然気が付いた。
わたしの世界は、半永久的に、わたしの弟がいる世界だと実感した。
わたしの世界の仕組みは、彼に生活を与えられる仕組みでないといけないと思った。
そのとき、わたしは、わたしの世界の狭さに悲しくなった。

そして、悲しくなった自分に「死ね」と言った。

母は、優しい人だからすぐに気が付いた。
母は、弟のことは心配しなくていいと言った。
自分と父が生きている間は、自分たちがいるから大丈夫だと。
そして、自分たちが死んだあとは、世の中が弟に生活を与えてくれると。
世の中が面倒を見てくれるから、わたしは好きなだけ世界を歩き回ればいいと言った。
そういう世の中でなくてはならないと、自分は信じていると、そう言った。

わたしは、母から一.五メートル以内のところに立っている自分を意識した。
母には、わたしより向こう側は見えない。
母には、わたしの立っているところから見える世界は見えない。
世界は、そんなことを約束してはくれない。

ある日、弟が「死ね身障」とつぶやいた。
弟が五歳児であることを思い出してほしい。
五歳児に、一体誰がそんな言葉を教えたのだ。
誰が、わたしの弟と同じクラスの多動の少年に、「お前なんか、堕ろしちまえばよかったんだ!」と叫ばせるのだ。
わたしの立っているところから見える世界には、そういう言葉があふれている。

しかし、世の中に暮らすほとんどの人は、それを知らない。
もしくは、メディアを介して味わっている。知ったつもりになっている。
冷凍保存された感動秘話を、レンジで解凍しては、消費している。
世の中は、消費者に便利にできている。

しかし、彼らの世界に、わたしの弟はいない。
彼らの優しさは、弟にまで届かない。
母の優しさは、半径一.五メートル。
彼らの優しさは、奥行き七〇センチ。冷凍庫ひとつ分の貯蔵力。

想像力が及ばなくなったところで、世界は地平線を最後に途切れる。

津波の映像は、テレビのこちら側の人々をPTSDになるまで追いこんだそうだ。
しかし、一〇〇〇回目の津波が東京で流れたときから、津波の映像は途端に色になった。
放射能は最初から、概念だった。
東京人の優しさは、テレビの前でこたつにもぐった。

弟の誕生日には、おもちゃを買った。
彼は、母と嬉々としてトイザラスへ行った。
あのひっくり返ったRは好きじゃない。
好き嫌いでものを言うのも好きじゃない。

弟は、父と母に挟まれて眠る。
和室にはこうして三本の優しさが横たわる。
わたしの世界は、となりの部屋で震える。
わたしは、レインマンを観ても笑えない。

わたしは、死ぬまでに宇宙に行きたいと思っている。
公立中学校の英語の教科書は、そんな覚悟を人にさせる。
宇宙から地球を見ない限り、わたしは地球に優しくなれないと思った。

わたしの世界もまた、半径一.五メートル。
 (1,990)









 

May 27, 2012

GLITTER





今年のはじめごろから、デジタルではなくフィルムで写真を撮るようになって、
またぐんっと、写真撮るのが面白くなった。

今までは、目に見えてるものを撮ってる、というか、
まあ、単純に、風景を撮ってるって思ってたんだけど、
フィルムで撮ってると、風景じゃなくて、光を記録してるんだなーって、しみじみ思う。
特に感光しちゃった写真とか見ると、ぶわって思いだす。
ここに写ってるものは風景じゃなくて、光だ!って、ひとりでざわざわする。

そんで、人が写ってるってことは、
その人と同じ光をはじき返して、隣り合わせで呼吸したってことだ!って思う。
特にその写真に写ってる人が自分にとって、しんみり大事な人だと、すごいしんみりする。
そうでもなくて、街角のいい味出してるおじさんの写真とかでも、
ちょっとなんか、愛情わいてきたりする。

 しない。

  する。笑


だから、なんていうか、
いくらお金のかかる趣味でも、やめられないなあー(困ったなあー)と思う。

もしわたしがこの先、語りたがりの半端モノ根性を発揮して、
写真に哲学をもつことにしたとしたら、
「写真は、同じ光と時間の中を生きた証拠である」って言うかもしれない。

でもたぶん、やっぱ、恥ずかしいから、言わない。



いいよね、写真。










May 26, 2012

SYNECDOCHE NEW YORK



"What was once before you - an exciting, mysterious future - is now behind you. 
Lived.
Understood.
Disappointing. 

You realize you are not special.
You have struggled into existence, and are now slipping silently out of it.
This is everyone's experience.
Every single one.
The specifics hardly matter.

Everyone's everyone."




- Film "Synecdoche New York" (2008)





May 25, 2012

EXTREMELY LOUD & INCREDIBLY CLOSE



"I said, I want to tell you something.
She said, you can tell me tomorrow.
I had never told her how much I loved her.
She was my sister.
We slept in the same bed.
There was never a right time to say it.
It was always unnecessary.
The books in my father's shed were sighing.
The sheets were rising and falling around me with Anna's breathing.
I thought about waking her.
But it was unnecessary.
There would be other nights.
And how can you say I love you to someone you love?
I rolled onto my side and fell asleep next to her.
Here is the point of everything I have been trying to tell you, Oskar.

It's always necessary.
I love you."


- Jonathan Safran Foer  "Extremely Loud and Incredibly Close"






UNDERGROUND



今日の夜は、ひとりでごはんを食べなきゃいけない夜だった。
そんな日は、普段ボンボンなボーイフレンドや、イイトコの子な友達たちが一緒に行ってくれない、ファストフード屋さんに行ったりする。
夕飯にバーガーなんて。ザ・不健康。
でも、その生産性のない食事が、きらいじゃない。


とにかく。


ぼーっとハンバーガーを口に入れながら、店の入り口の方を見ていたら、三人組みの女の人が店に入ってきた。
正確には、三人の内ふたりが先に入ってきて、最後のひとりが後から遅れて入ってきた。
わたしより3つか4つくらい年上に見える3人は、平均的にかわいい顔をしていて、平均的におしゃれをしていて、平均的に頭も悪そうだった。 さっきまで静かだった店内が騒がしくなる。
それまで見つめていた空間を、その3人が占めるようになると、そのままわたしは3人を眺めるようになった。
彼女たちの服装、体型、髪形、、、どこにでもいる。
会話の中身が意味をなさずとも耳になだれ込み、それをわたしはそのまま受け流した。
元から意味なんかないんだろうなー、とか思いながら。


でもひとつ言っておくと、たぶん、彼女たちはそんなに悪くなかったと思う。
ただ、わたしが、女の人がすきじゃないんだと思う。


彼女たちを見るのにも飽きて、わたしの意識もまたどこかへ流れていきそうになったとき、最後に遅れて入ってきた女の人の、目がぐらっと揺れた。歪な月みたいな目。

しかも、それをわたしは見た。

その人の目は、ぐらっと揺れたと思うと、見る見る大きくなった。
大きくなればなるほど、すーっと透明になって、そのまま、あっちへこっちへゆらゆら揺れて、光をどんどん吸い込んだ。
そうして吸い込んだ光は、波立つたびに、どこかへぽいと捨てられた。
目が揺れる間、鼻は、きゅっと赤くなった。
その人は、落ちつかなげにうろうろしたあと、最後に、もう限界になった、とでもいうように、くいっとすこし上を向いた。
こぼれそうになるものを、こぼさないように、くいっと。

すぐ近くで会話してるふたりは、そのひとりの様子に気づかなったみたいだったけど、わたしはどういうわけか気付いてしまった。そして、目が離せなくなった。
だって、ひとりの女の人が、必死になみだをこらえてるところを見たのは、生まれて始めてだったような気がしたし、その姿がすごくきれいだった。一瞬でその人のことがすきになった。

どういうわけか、悲しいものはきれいに見えてしまう傾向があると思う。




今日は、わたしも泣いた。
彼氏の家で、借りた敷布団が押し入れに入らなくて、泣いた。

もちろん、それだけが理由じゃない。
でも最終的には、敷布団が押し入れに入らないことが悔しくて、悔しくて、泣いた。
そもそもなんで、敷布団で寝なきゃいけないんだ。彼氏はふかふかベッドで寝てるのに。
しかも、それをなんでわたしがしまわなきゃいけないの。
なんでそんなの当然でしょっていうの。
わたしはすきでこの布団で寝てるわけじゃないのに。
お前が、今日は徹夜明けで寝れてないからこっちで寝てよっていうから、せんべい布団も我慢したのに。
「なんでいっつも自分のことしか考えてないの!」
って言ったら、君がそう思うんだったら、僕らの信頼関係は終わってるね、って言ったでしょ。
そのとき、そんなこととっくに知ってるよ、って思ったことも、知らないでしょ。
だから、黙った。
そんで、泣いた。
その自己中心的なボンボンのことが、大好きで仕方がないわたしは、敷布団が恨めしくて、泣いた。

そのときは、ぐわっと感情にのまれてその場で泣いちゃったけど、普段は我慢する。
悲しいことがたくさんあるわけじゃないんだけど、気分の上下が激しいから、わたしはすぐ泣く。
自分が特に理由もなく、泣くことがあるのをわかってるから、相手がびっくりしちゃわないように、泣きたくなっても後で隠れて泣く。

そういう日は大体、帰り道の地下鉄で泣く。
黙って、座ってると涙がこみ上げてくる。
そうやって、何からも隠れてないし、むしろ人はたくさんいるっていうのに、座席の端っこで、いつも、めそめそ泣く。
泣いてるときに顔をあげてみたことはないけど、たぶん気付いてるよね、周りの人。
でも、地下鉄で泣くときが、一番誰にも見られてないような気がしてる。
なにもかもから隠されてる瞬間だと思ってる。
人に紛れれると、自分が消えるんだと思ってるんだと思う。
そうやって、灰色と暗闇が交互にやってくる地下鉄の中で、感情を清算しようと試みる。


うまくいかないことの方が多いけど、すこし気分がよくなる。


別れ際、彼は、「お前なんかさっき号泣してなかった?ううっとか言って。」と冗談交じりに言ってきた。
そうやって、軽ーく、わたしが泣いてたことに言及することによって、彼が自分が言ってしまったことばを取り戻そうとしていること、そのことばを信じてはいないことをわたしに伝えようとしていることをわたしは知っていたし、彼もたぶん、わたしが知ってることを知っていたと思う。

なにかが丸く収まった。
わたしたちは、信頼関係に代わる、全く別のものを持っているから、やっかいなのかもしれない。




ファストフード屋さんでは、3人組は、それぞれテイクアウトで頼んだものを受け取ると、すっと出ていった。
目に涙をためていた人も、いつの間にか、他の二人の会話に入って、けらけら笑ってた。
相変わらず平均的なかわいさ。どこにでもいる。

わたしも店を出て、地下鉄へ向かった。






May 24, 2012

THE BLUEST EYE


"Then she stopped staring at the green chairs, at the delivery truck;
she went to the movies instead.
 

There in the dark her memory was refreshed, and she succumbed to her earlier dreams.
Along with the idea of romantic love, she was introduced to another --physical beauty.


Probably the most destructive ideas in the history of human thought."



- Toni Morrison "The Bluest Eye"




May 23, 2012

1984


"I think I exist.
I am conscious of my own identity. I was born, and I shall die.
I have arms and legs.
I occupy a particular point in space.
No other solid object can occupy the same point simultaneously."


-George Orwell "1984"


HOME



自分が生まれた土地がすきだってのは、ちょっとすてきなことだよね。


この春は、一カ月働いた沖縄のユースホステルで、
福島から"保養"のためにやって来た100人のこどもたちに会った。

福島生まれ、福島育ちのこどもたち。
東京生まれ、東京育ち(ちょっぴりテキサス風味)のわたし。

日本のあっちとこっちから来た100人とひとりの生活が、どういうわけか沖縄で重なって、
わたしからしたら、それだけで、もう、摩訶不思議。マカフシギ!
彼らは毎日、外で遊び、中で遊び、けがしたり、けんかしたり、風邪ひいたりと大忙しで、
わたしは、"フロントのお姉さん"として、毎日せっせとはたらいた。




ある日思いついて、ひとりひとりに、「沖縄と福島どっちが好き?」って聞いてみた。
そしたら、大抵の子は「えー、どっちもー!」っていう。
「だめ!どっちか!選んで!」っていうと、
「えー無理だよー!」とかいいながら、
半分は、「じゃあ沖縄!」っていって、もう半分は、「やっぱり福島!」っていう。


「なんで?」ってしつこく聞くと、理由はいろいろ。


「だって、沖縄ではホテルに泊まったり、公園とかで遊べるし」
「海で泳げるし」
「ご飯もおいしいし」
「3月もぽかぽかだし」
「キャンプに連れてってもらえるし」
「それに、福島だと放射能があるし」
「だから外で遊べないし」
「放射能がなければ、福島なんだけどなあー」
「うちは原発から〇〇キロ圏内なんだよ!」


「でもまあ、福島には、家族とか友達がいるからね」
「先祖のお墓、守んなきゃいけないしさ」
「ふるさとだもん」
「オレ、沖縄きらい!」


わたしも、その春は、ただただどっか遠くに行きたくて、
どこにも行かないで東京でぼーっとしてるなんて、春休みを無駄にしてるとしか思えなくて、
でも例のごとく、お金はなくて、、、、、、
だから、お金を稼ぎながら、遠くに長くいられる方法を考えて、
沖縄のユースホステルの仕事を見つけたわけ。
期間中福島のこどもたちがそこに来るってのも知って、最終的にはそこに決めた。
遠くへ、遠くへ、と思って、沖縄まで飛んだの。

でもね、わたしも沖縄と東京どっちが好き?って言われたら、
少し迷ったあとに、「やっぱ東京でしょ!」っていうと思うよ。
事実、沖縄にいる間、東京に帰りたいーって結構思ったもん。
東京は灰色だし、きれいな海はないし、3月でも春の兆しは見えなかったし、
はっきり言って、そんなにおもしろいことなんもないけど、
でも、東京が好き。
その土地がすきなのかと言われると、そうでもないのかもしれないけど、
その土地の上にある世界がすき。
それを、なにか別のものに取り替えたりすることはできない。
それにはもう、遅すぎる。



福島キッズは、くっそ生意気で、わがまま言い放題の二週間を過ごしたのちに、
わいわい、にぎやかに帰っていった。
じゃあねーーーとか言いながら。

沖縄がすきっていった子も、福島がすきっていった子も、
どちらもやっぱり、家に帰るのはたのしみだったんじゃないかな、という、
少しナイーブ?な希望的観測。
自分が生まれ育った土地が、なんとなくすきってのは、
きっと、本当だったら、ごく自然なことだと思うんだよね。
どこかに生まれるってことは、
その土地と自分の世界を切り離すことができなくなるってことだと思うから。 
これは、愛国心とか、そういうのとはまったく違う次元の感情だと思うんだよね。


だから、福島の子供たちが原発のことを思って、福島を選択することを躊躇するのは、
きっと、とても不自然なことのはずだよね?


わたしも灰色の帝都、東京がすき。
ふるさとだからさ。便利だし。
沖縄も、行ったことないけど福島も、すき。たぶん、絶対。

でも。

生まれ育った土地。
自分から切り離せない土地をもつことは、とても、すてきだと思う。
それは重荷ではあるかもしれないけど、
ひとつの世界を背負おうってんだから、そりゃあ重いだろうよ、と、思うのです。
でもその土地が重すぎたとしたら。
それも、わけもわからず日に日に重くなっていく土地だとしたら。

世界を切り離さざるを得なくなるのか。
それは、とても自然だけど、とても不自然だし、わたしはすこし寂しい。





でも。








May 22, 2012

APPOLO


月食の夜。
月がみるみる黒い影にのまれていく。月はますます赤くなっていく。
ベランダからぐっと身を乗り出して、双眼鏡をのぞきこんだままの姿で、母は、「あの影が地球だと思うと感動するね…」と静かな声で言った。
そうして、わたしに双眼鏡を手渡した。
母は夜空の暗闇に溶けこみ消えていく影の中に、はっきりと地球を見たのだった。
それまで、赤く欠けていく月にばかり目がいっていたわたしの中で、すとんとそのことばが胸の奥の方へ降りていった。

母にそう言われるまで、わたしには地球が見えなかった。

地球に生きているわたしたちにとって、地球は月よりも太陽よりも遥かに遠い星なのかもしれない。母は、自分の生きている星の丸さを、はじめて自分の目で確認したことに感動していたのだった。


金環日食の朝。
母は例のごとく大張りきりだった。
金環グラスは二つも買って、みんなの分のおにぎりを握って、レジャーシートと曇ってしまったときのためのピンホール式段ボールまで用意して、弟を連れて、河川敷へ向かった。
わたしは案の定寝坊して、ふたりにおいてかれる形で、小走りであとを追った。
くもり空の向こうでは、太陽がもう欠けていた。
河川敷の段々芝生に座ると、もうあと15分くらいで金環日食の瞬間を迎えるような時間だった。
母は「なんか、寒いね」と言いながら、弟におにぎりを手渡し、わたしにはグラスを手渡し、自分も空を見上げた。周りにはわたしたちと同じように、金環日食をひと目見るためにと、早起きしてきたひとたちでいっぱいだった。誰もが上をちらちら見ている。
「ちょっと暗い気がするけど、気のせい?」「ワンセグで中継も見てみよっか。」
母はせわしなく、楽しそうだった。

そして、金環日食の瞬間。
太陽は金色の輪っかになっていた。
丸い太陽の前に、丸い月が重なり、光の輪だけが残る。
宇宙のずっと遠くの方で太陽が燃え、月が回転する中、そこからずーっと線を引っ張ったところにわたしたちはいた。
みんながグラスをかけて、上を見あげた。
空を。太陽を。
いつも、見あげているようで、見ることのなかった太陽に初めてお目にかかった。


「月があんだけ重なっても、世界はこんだけ明るいんだから、太陽は偉大ね。」
母はまた何やら感慨深くなっているようだった。わたしも太陽を見あげる。本当に輪っかだ…。


日本全国が注目した天体ショーは、月がゆっくりと太陽の前を通りすぎていくことによって、終わりを迎えた。
さっきまで上を見あげていたひとたちも、みんなぽつぽつと家に帰る。幼い子供もいる家族、制服姿の中学生、おじいちゃんおばあちゃんカップル、でっかい一眼ぶらさげたおっさん。わたしたちも帰る。


「お父さんも、金環日食見たかな?」
「見てないわよ、どうせ仕事。」



母は月食の夜、空を見上げて、そこに地球をみた。
日食の日には、影りゆく太陽ではなく、世界の温かさを思い出した。

その日、わたしにとって、宇宙の遥かかなたに目をやることは、隣に座るひとのこころに思いをはせることとなった。いつもとなりにいてくれることを、どういうわけか忘れがちになってしまう、そのひとのこころに手を伸ばしてみたくなった。


こころは太陽よりも遠いのであろう。そして、もっとずっと近いのであろう。
弟の手をとり歩く母の姿に送れぬよう、少し歩くペースを速めた。





May 12, 2012

TWEET TWEET




【Twitter Favorite 語録】

わたし、Twitterのお気に入り機能の使い方をたぶん、間違えてて、笑
自分のつぶやきの中でも忘れたくないものをお気に入り登録しているわけなんです。
それを一覧に。長いよ。







2011年








1月18日 というか、自分の台詞に耐えられない。会話できない。

1月28日 そう、無機質!わたし無機質なところがあ る、と思う、そしてそこがあんまり好きじゃない。

1月30日 Anyways, keep on telling yourself that it's nothing and that it really doesn't matter, that's how we cope with the world :)

2月2日 "if you wanna kill yourself remember that I love you. Call me up before you're dead and we can make some plans instead."

2月2日 なんかなかみからっぽ

2月11日 いらないものよりまずいらない言葉を手放せればいいなと思う、な。もったいないって思うから窒息するのかもな。

2月11日 知ってんだよね。全部預けたら、そこにそのまま全部置いてきたんだよね。知ってるさ!

2月13日 今すごい静かな気持ち。声を発したら壊れそう。そしてやっぱりなんだかんだ言って、白い息の出る寒さ好き!こうやって静けさと寒さに身を浸しながら帰った ら、もうベッドが暖かければいい。そこで誰かが寝てればいい。こういう感情をことばにしたときに、恋したいという安っぽさを帯びるわけなんです。

2月13日 楽しいことが同じだけ楽しい人!

2月18日 float aloft a paper crane in the middle of the pond of a baseball field

2月19日 太陽と月をくるくる回す、地球の極めて危ういバランスを思うと、どうにでもなれって言いたくなる!責任をとらない代わりに求めるのをやめる!から!

2月21日 武蔵境のホームの後ろのほうまで歩いたら、はじっこでうずくまって泣いた日のことを思い出した。電話の向こう側も泣いてた気がする。そんとき着てたダッフルは今週の日曜にフリマに出します。時は移り行くものですなあ。

2月24日 手放したいことばでいっぱい!心臓くるしい!

2月25日 うそをつくたびにちょっと心臓縮めばみんなうそつかなくなるよね。そういう風な進化をしてこなかったのはうそは方便だからでしょう。相手方の善意が大きかっただけに傷ついた。

3月4日 自分がされたらなみだ出ることは人にはしない、って自己中心的な基準だけど、わかりやすくていい基準だ、と思う。

3月9日 友だちに優劣をつけたくない、って言う人にすごい違和感を感じていたのは、それは優劣の付け方を知っている上での発言だったからだった、かも。わたしは機械的な使い分けが行き届いてしまっているから、優劣の意味がわからなかったというか、むしろ優劣をつけたくなる状況を求めてたというか。

3月10日 こぼれたものを拾う拾う 置いてきたものを集める集める
 
3月12日 なにか感傷にひたるよりも、物思いに耽るよりも、学者を気取るよりも、当事者になること、なりに行くこと、かな。

3月17日 テレビの惨状が色に変わりつつあるように、地震は史実へ、放射能は概念へ。

3月17日 「わたしが愛するのは、その魂が傷つくことにおいて深く、小さな体験でも破滅することのできる者だ。」

3月19日 「百年はもう来ていたんだな、とこの時始めて気が付いた。」

3月26日 夢の中からの方が近かった、いつものことだけど!

3月28日 相手が言ってほしいと思ってることばが見えてしまって、それが完全にその人のためだけだったりすると、その一連の動作の中で消費されゆく自分を感じるのでしょう。

3月31日 会いたいと思われる自分でいたいーーー むう

4月3日 めんたまあらってきれいにしたらよのなかもーっとよくみえるー だからーめんたまよーくあらってあたまのなかもすっからかーん るるるー

4月3日 RT: 結局のところ、生き死にのかかる局面では、みんな最後は、ともに過ごす愛する人のもとへとゆく。誰にも固有の死に場所があって、その死に場所はたったひとつ。他には選べない。

4月9日 鼻、気管、肺、脳。酸素よめぐれ。吸って吐いて。

4月10日 思えばこの決定論主義的なのって、わたしのその他のパーツからはちょっと浮いてるような気がする。

4月10日 でも、足のつかない自転車で長い坂を駆け下っても絶対死なないし、将来食べていくのには絶対困らないし、ああそうだったのかと思える人にも絶対出逢うと知ってる気がする。んだよねー。おめでたいほど楽観的。なんでこんなになっただろ。

4月10日 でも諸行無常とも通じるのかも。起こる出来事をうまく処理していくための哲学。諦めることと引き換えに憂うのをやめた。

4月26日 彼女ってのは傷つくものなのだなあーと思う。全ての女の子に共感できるよ。すごい、なんかまどかみたい。

4月29日 一瞬肩は借りても、そんなつもりはぜーーんぜんないのだーーーーーーーー結局のところ!

4月29日 ゼラチンでいっぱいのプールの中、水面を目指す!目指す目指す!そんで、もっかい考え直そう。動作には動機が必要で、動機には主語が必要で、主語は自分でしかないのだから、そこを考え直そう!うっしゃー

4月29日 てかもう映画好きとか言うのやだ、って思ったけど、でもやっぱり言う。これは誰かの遺産ではないし、つまりは宣戦布告なわけで、自分を甘やかしつづけるのに嫌気がさしてきたわけなんです。

5月3日 優先順位を間違えているのかわたしは…、というか優先順位という概念すら存在しない気が…。まただーーーー

5月6日 絶対的な事実があるだとか、真実はひとつなんだとかって主張して、その他を切り捨てるよりは、そのときそのときの自分の解釈や理解を優先して、世の中を選び取っていく方がよっぽど現実的だと思う。

5月6日 ひとりで考えるのをやめなきゃ!脳みそくっつけて考えよう?

5月8日 夜道ひとりで歩くのがすき。今日の空気気持ちいい。もっと傷つくとか最初から知ってたし!って思う、んだー。みんな、昨日より今日の方が、今日より明日の方が悲しいし、嬉しいのでしょ?と。どうせばかですよーーるららーー

5月17日 人の親切に見合うだけの人間になりたい…!自分の交友関係は自分の魅力によるところではなく、人の純粋な親切によるものであると思いました。

5月18日 RT : 擬人化しないとわからないって貧しい。それで達成される理解や愛らしさを根本から信じていいんだろうか。

5月20日 そして思うのは、追いつけないほどのスピードで時が流れているからこんなに大変な思いをしているのかということ。成長が遅いのではなく、時間の進み方が早すぎるのだって。

5月21日 運命的な直感も長続きしないということもひとつ。この悪習を持続させているのは自分だということに気付きたくない、というのもひとつ。将来的にそのようなことが起こりうるという可能性を保証しておきたいというのもひとつ。強い感情に動かされたいのもひとつ。

6月23日 くそうざいことを言われたときに笑って殴れる感じがまずいのだと思うのですが!はい!どうよ!

6月26日 必要性重視!寝る!

6月28日 半径1.5mに満たないものを、どんどん押し広げていくこと。

7月23日 なんということもなく、あっさりはたちになりました。成人です!昨日はお母さんと新生児だったときのわたしの映像を観ました。同じ生物だとは思えません。 でも、だからこそ生き方を改めたいと思った、なあ。いい大人になりたいです。お祝いいただいたみなさまありがとうございました!

7月25日 MY FUCKING T-SHIRRRRRRRRRRRRRRRRRRT OUCH 

8月6日 色んなところが前より痛い。のは、色んなものが前より大事だから。謙遜はできない。得たものは大きい。

8月7日 That's why they call it a crush :-)

8月10日 誰かを救いたいという願いは、理性ではなく、感情であるということ。

8月21日 ぽわんぽわん 頭のなかで落としたものの音がするーーーーーーーーー 早くベッドへ。

8月23日 一歩一歩、どこに次の一歩を置くかをきちんと考えるような生き方はしてこなかったけど、一歩一歩、置いてきた場所は多分間違ってない。だから、これからもたぶん、間違わない。ああー、酔っ払いっていい気分!

8月24日 やる気が全部もってかれる朝。何を自分の前に並べてきたのかも忘れそう。

8月24日 そういえば、コクリコ坂から観ちゃった。思いがけず、大切な人と。しんみり。

9月2日 なんだろな。ホームシックかな。ホームシックって言ってみたいだけかな。ホームシックって言えたら、その場所がホームになる気がするからかな。

9月5日 女性的で動物的。ようするに感情的。

9月5日 明日は楽しみなことでいっぱい。黄昏の中水遊びしてるような気分。はねあげた水の雫が朱い。

9月5日 自分が今しあわせかどうか、判断することに飽きた。肩書きにこだわるのにも疲れた。現実は自由自在であるとしたら、このあやうさの中の惰性をなんと呼ぼう。

9月8日 昨日は関西弁で武士道を語る挫折できないイケメンにほれぼれしたーーーーーー。笑 と同時に、愛情がかちっと音を立てるのを聞いて、気が遠くなった。さあー今日もがんばろう!

9月13日 どんなに考えてもわからないし、脳みそくっつけるわけにはいかないし、「わかんないからこそ、人生おもしろいんじゃない!」と、笑って言ってのけるすてきな女性になりたいとは思うけど、弱くてさびしがり屋なままでもいい。このままでもいい。

9月13日 まるみがいびつな月がすき。光がころがる月がすき。グラスにそそいだロゼのよう。やわらかくて、甘い月がすき。

9月16日 あたしはわたしよりあたいに近い。だからきらい。まとわりつくaikoみたいなイメージがきらい。弱さを売りにした不潔さがきらい。

9月24日 切なくなるから、直視できない写真がある。そんな写真を撮った人はえらい。しみじみ。

9月24日 恵まれる形でばかりしあわせになってきたなと思うのです。

10月4日 前あった建物が、駐車場になってしまったときの切なさ。ぽっかり開けて、曲がり角の向こう側が見えて。前は見えなかったのに。駐車場って。むなしい。

10月6日 よし。思いついた。この際サブアカ作って、ひたすら主語は"あたし"の140字乙女ぽえむつぶやいて、しゅうまいまい清潔版か、尭お気に入りのセンチメン タリストさんみたいのになるね。ひまができたら。おもしろそうだよね。「あたしの心は、雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ。」みたいなね。おやすみ。

10月7日 すき。意味深長。

10月7日 宇宙一かわいい。

10月10日 好きなものは好き。優先順位をつけるのは苦手。果てしなく気分屋。でも、世界はシンプルに切り取りたい。

10月10日 すごく楽観的だけど、現実的。感情的だけど、冷静。自分の限界を把握してるからこその自信。また、それゆえの自分への甘さ。

10月10日 宙ぶらりん。でも今日は気にならないー!肩書きはセーフティネットであったか。

10月10日 寝過ごした。月が綺麗。この種の倦怠はなんでしょう。人に頼りたいなあ、なんて。甘い。

10月12日 手をつなぐ動作に感じる、思いやりのようにやわらかい愛情のことを思うと、ゾンビから逃げるときは、手をつながないで本気で走って逃げてほしい!イラつく!

10月12日 第一、手つなぐから女の子がこけるんじゃん!そんで噛まれて、ゾンビになっちゃうんじゃん!ばかかよ!

10月13日 なんだろうこれは?満月のぽっかり感。人生って思いがけない出来事ばっかだなあー、自分で選んでるものって半分もあるのかなあー。

10月13日 死んじゃったらすぐ生まれ変わりたいなあー。でもその前にふわふわ、感情に縛られずに事実や思い出を語る会話がしたいなー。あのとき、本当はああだったんだって伝えたりするだけの。そんで、生まれ変わる。願わくば人間!願わくば女子!

10月14日  謝謝!カムサハムニダ!コップンカー!

10月14日 メルシー!ダンケ!グラシアス!

10月16日 Everything is unexplainable :-)

10月20日 こころを有形のものだと理解したら、もっとやさしく、もっと寛容になれるんじゃないかという仮説。

10月21日 はっぴーの源。とまどい迷いながらもしあわせになる。今日のしあわせで胸をいっぱいにしたら、明日から自分がどうしたいのかを、また考えなきゃな。

10月21日 楽しくないと、パッションがないと、何も続かないって思ってて、今もそれに異存はないんだけど、そういうのって子どもなんだなって思ったな。いつまでも子 どもでいたい、そういう瑞々しい気持ちでありたい、っていう価値観は好きだけど、きちんと責任感と説得力のある大人にはなりたい。

10月23日 あたたかな孤独。ねえさん、妥協してください。

10月23日 つっぱらないこと。自分の非も認めること。正直であること。気分に任せて人を傷つけないこと。

10月23日 大切なものを大切にすること。その難しさをわすれないこと。

10月23日 はじめて泣いた。そしたら今まで溜めてたものが見えた。外向きの不安じゃなくて、内向きの不安。それと同時にやっぱり心はここにおいて来ていたんだなということと、この人の前では弱くありたくないんだな、ってことも見えて、ややこしくなった。(´・_・`)

10月24日 すべての女の子は傷つく運命にあるのです。きゃー(´・_・`) がんばれ女子!

10月25日 ばななっぷる。にやーーーーー!寝る!

10月27日 わたしが相手にとっての現実だということ。現実ってなんぞ!捉え方はきっと様々だけど、夢見てるんじゃなくて、向き合って大事にされてるような気もするから、許す。赤裸々。寝ようー!

10月27日 Life Prospectiveに必要な財を各人が選択できるシステムが正義ってのは、各人がそれぞれ明確な選好をもっているっていう前提をもとにしてるけど、モラトリアム世代のわたしたちは自分たちの選好が見えなくてもやもやしてることが多い。

10月27日 機会均等・能力主義の社会の中で、やればなんでもできそうだからこそ、また行動したものばかりが評価されているからこそ、選択することが重荷になる。自分の選好が見えてても、その価値に自信がもてない。

10月27日 そうやって選択が重荷になる構造をわたしたちの境遇だと考えたとき、その境遇故に選択を避けた人たちが結果として社会的財を得られないっていう状況を回避しなくちゃいけない。そのために、何かがその人のために最善の選択を代わりに行うべきっていうのも、あり…?

10月28日 映画とかでよくある、①運命的な出会い、②情熱的な愛、③悲劇的な別れの流れを踏襲してしまうヒーローとヒロインは、ふたりでしか世界を共有できなかった ためにその流れから脱け出せなかったのでは、という仮説。ふたりの世界を家族・友だち・世の中とも共有できないとハッピーエンドは迎えられない。

11月3日 Love just makes me sleeepyyy :-)

11月13日 低反発。いい意味で。

11月13日 変幻自在のパズルのような。もふってやると、ふにゃんってなって、最後にはぴたってはまる。そんな感じ。どうしようもない。

11月17日 自分がはっぴーになるより、自分がひとのはっぴーの源になりたい!というわがままいぶきらしい自己中心的お人好し。なぜって、その裏を返せば、誰かをはっぴーにするのは自分でありたい!ってことだから。なんでもいいからはっぴーを大事にしたい!

11月22日 目をつぶったまんま指切りをしたときもあったけど、今は手はつなぐだけで、身の丈超えた約束はしないのです。その誠実さに今は感謝できるのです。

11月25日 きっと、誰よりも感謝してる、ということ。それに尽きるかもしれない。

11月30日 誰しも自分は理解されてないと思いがち。聞きたいことばを聞いたときにしか感動できない。常に問いただされているのは、何が大事なの?ということ。

12月6日 色んなものを時間という枠組が包括する。時間には限界があるからという意味でだけ、全く性質の異なるものを比較し優劣さえもつける。しかし時間の枠組さえ取り払えば、例えば仕事と恋人は比較すべき対象ではない。よね? 天秤にかけようという動作自体が息を詰まらせるのか。

12月8日 大事なのはひとだってわかってるのに時々忘れちゃうんだよね。大事なのはひとだってわかってて、自分の境遇に感謝できるときが一番しあわせ。自分が、自分が、って思ってばかりいると、自分がしあわせになれない。どうして忘れちゃうんだろう。ちょっと思い出した。

12月10日 神でもコスモスでもなんでもいいから、おねがいしたいことがある。(T_T)

12月10日 すき。つき。きっとお酒飲んでて見れてないだろうから、わたしが写真撮っておいてあげるのです。ぽんこつカメラで。あかいつき。世界はとってもシンプルである。

12月11日 なんだかしあわせな朝だなあ。ふとんがあったかくて、あったかくて。

12月14日 3年分の若さだからさ。こわい。もうねよ。

12月15日 地下鉄の温もりのなかにぐっと沈みこんでしまいそう…あはれ江戸人。

12月18日 準備しよ。今年もあとちょっとだし、来年になったら、ほんとにあとちょっとだし。武装しよ。強くなろ。

12月18日 悲しい悲しい夢を見た。インドの滝から1km飛んだ。

12月20日 世の中の人々の優しさなんて、冷凍庫ひとつぶんだと知っているのです。

12月22日 くさりかたびら?!

12月29日 写真撮るのが好きです。とても。こないだまでは色がぱきっとしたやつがすきだったけど、今はざらっとしてるのが好きです。写真の中のみなさんがすきです。現実世界でも好きだけど。さ。

12月29日 なにが言いたいって、ひとがすきで、写真がすきです。おわり。

12月30日 完全な理解は存在しない。それを理解した上で、相手がわたしのことを理解できていると思っていることに心地よさを覚えるのでした。

12月30日 求めるのは理解ってほんと?って話なんですよ。理解なんか最終的には脳みそくっつけて考えないとできなくて、そんなこと言われてもやっぱり自分の脳みそは とっときたいから、だからあなたがわたしをわかろうと努力してきて、今わかったって思っているそのことに意味があるし感謝するよ、ってこと。

12月31日 これが本来のわたしなんでしょうか。






2012年







1月1日 去年一年、ぐーーっと広がった世界とそこで優しさを重ね合わせた人々。この超偶然的偶然を縁やら運命やらとはちがうことばで祝いたいです。感謝!

1月3日 自分を自分ひとりで定義できるってのがそもそもの勘違いなのか。

1月5日 今あるしあわせをどうやってとっとこうか、ずっとずっと考えてる。

1月13日 ビートルジュースのバナナダンスがすきで覚えた星だから、死なないで、ベテルギウス。

1月25日 なにが大事なのか、毎日毎日問われていて、毎日毎日、同じように、お願いだから比べないで、と、唱えている。のです。

1月25日 すっごく久しぶりに暴力的なむしゃくしゃを感じたなあー。ひとりでもしあわせになれたら、みんなひとりで暮らすんだろうなあー。不思議。

1月25日 わたしもっととがらないといけないんだなあー、ってよく思う。とがることを意図的に避けてきたような気がするけど。

1月26日 ここまでぜんぶひっくるめて、わたしとしてカウントして、ほしい。

2月11日 そんで、考えるのをやめる。しばらく経って、さびしくなって、やさしくなったら、ことばをはじめて、できるかぎりシンプルになる。

2月16日 ご機嫌になるとセンチメンタルにもなっちゃう現象、あるよね。

2月17日 夜になると、ちょっと正直になって、ちょっとさびしくなって、ちょっとウソツキにもなるからいやだ

2月20日 強いことばを用いることを嫌っている。何かの価値を判断することを避けている。問われ続けることは、あなたは何のために、であるのなら、強いことばも振りかざせるようにならないと、と思う。

2月24日 国際関係とかいう以前に、日々が生存競争でありんす。

2月25日 誰かにとって、人の死を悼む行為が、これからを生きる人のために戦う行為を通じて行われているのかな、と思うとさ、それはとっても悲しくて、でもとっても美しいなあと思う。だから、デモでもいいと思うんだよね。

3月22日 今日も汽笛の音で目が覚めた。窓の向こうは那覇港です。

3月25日 東京を捨てるのには勇気がいる。それは東京が故郷だからってだけじゃなくて、東京が帝都東京だからだと思うんだよね。

3月27日 絶え間ない努力。不安なときはそれしかないんだよね。

3月31日 しあわせは砂のようですか、藁のようですか、それとも指先にささる棘のようですか。

4月1日 どこに現実があるか知っていますか。

4月2日 究極的に、言っちゃいけないことはなくて。でも、言いたいことと言いたくないこと、言っていいことと言わなくてもいいことはあって、その沈黙を使い分けなきゃ一人前じゃない、って勝手に思ってる。

4月5日 色んな方向に、寂しさひとしお!誰かに会いたくて、そんでもって家に帰りたくて。いつだって、帰るために遠くへ。

4月6日 中高生時代に戻りたくない理由はたくさんあるけど、うさんくさいかっこつけ男子なんかにもぽろっと恋しちゃうからってのもそのひとつ。そこのDK君、見苦しいです。

4月22日 左腕にてんとうむし。最近疎遠なてんとうむし。

4月26日 ぐっと噛みしめるとどんぐりの味がする。苦い。渋い。削ったこころを思うとくらーんとする。

5月1日 じっとしてるとぼたもち降ってこなくなっちゃうんだよね。そろそろ日常に飽きてきたよ!

5月5日 世の中の自分が許せないものの多くは、自分の中にある。

5月9日 昨日の昼下がりを、ラップでくるんで、瞬間冷凍して、タッパに入れてとっときたい。

5月9日 ママです すきです すてきです

5月11日 ちっちゃいころ怖いものはなんですかって言われて竜巻の絵を描いて、そしたら絵の中で飛ばされてる人間がみんなにこにこしてて、先生に笑われたのを思い出した。おやすみなさい。






NINGEN



「世界の広さ。最小単位の大切さ。」

ともだちがそっと机の上に置いたことば。
慎重で、まじめで、やさしい彼女のことばだったから、ことさらからだ中に沁み渡った。
はっとして、一呼吸おいた。


 ひとの話を聞く。
世界を変える術が、これだけシンプルだということに、感動する。







May 10, 2012

SOMETHING


何か書かなきゃという気持ちだけで、ブログを開いてみる。

一向にブログが苦手なのは、それが知らない誰かに開かれているからだろうし、
それがキーボードで打ち込むものだからだろうし、
ブラインドタッチが速いのはいいことなんだけど、
指先からことばがするすると逃げていく感じがして、うまく思考できない。
濁流のような文章になるけど、その分正直でもある。


正直、ねえ、、、


最近は、しあわせ、しあわせ、ってずっと繰り返してる気がする。
ああーわたししあわせだーとのんきに叫んでるわけではなく、

「ああやったらしあわせになれる!」
「こうやってるからしあわせになれない!」
「まあ所詮しあわせなんてこの程度!」
「このしあわせ一生とっときたい!」

こんな調子で、しあわせっていう概念、状態、現象に対していつまでもあーだこーだ言ってる感じ。
今あるものがしあわせかどうか、これから先自分に待ってるものがしあわせかどうかっていうことが、どうも気になって仕方がないらしい。というか気になって仕方がない。


ICU高校の入学試験は三教科70分。
国語は長文が二つに古文がちょろっと。
当時、帰国子女として一番の売りであるはず英語よりも、さらに国語の方が偏差値が高いという秀才JCだったわたしにとっては、70分もあれば精読できる量だったのね。(今から考えると信じられない。笑)

で、その年の受験問題の長文の主題がまさしく「幸せ」だったわけですよ。
細かいことは忘れちゃったんだけど、その中にすごく今でも印象に残ってる一文があって。
それが、、
「私は幸せとは何ですかと問われたとき、それは幸せについて考えていない時間だと答えます。」

筆者はつまり、しあわせってのは引き算の結果なんだっていうことを言ってたんだと思う。
不幸が存在しない状態がしあわせなんだと。
人は不幸に陥ったとき、あーしあわせになりたい、って考える。
その時とはつまり、なにかが足りない状態、満たされていない状態であり、だからこそしあわせを求めるのだと。だから逆説的に、それ以外のしあわせについて考えていない時間、それは満たされている状態、欠けていない状態であり、つまりしあわせなんだと。

これを読んだときすごく納得したのを覚えてる。
あーそうかもしれない、って。
というよりも、その考え方を採用すれば、容易くしあわせになれるって思ったのね。
だって不幸の不在がすべてしあわせだったら、すごくしあわせだと思うもん、わたし。
でも今、あまり共感できなのは、不幸の不在以上のしあわせを経験したことがあるような気がするからだと思う。
「あー今しあわせ!」と、何かの喜びに、もしくは感動に、はたまた快楽に、「しあわせ」という名前を自分でつけてしまったから、もはや不幸の不在をしあわせとして信じることができなくなってしまったわけです。


あーもったいない。
もったいないと思うでしょ?
しあわせは不幸の不在から、喜びを強いる強迫観念へと生まれ変わったのでした。


あきほがこないだしてくれた話で、ママ友同志のいじめっていうのがあった。
子供を幼稚園や保育園に通わせはじめた母親同士がコミュニティーを作って、その中で中学生顔負けの幼稚、かつ卑劣ないじめをしているという内容だった。

たとえば、、
持ちよりパーティーを開いては、いじめられている対象の母親の料理に一口も手をつけずに、本人の前でゴミ箱に捨てたり。
小学校受験をして落ちてしまった子供の親が、受かった子供の親になりすまして学校に電話し、その子の入学を辞退すると申し立てたり。
その母親の旦那が女の人と浮気している現場に遭遇したという噂を流したり。これは実際離婚するに至ったケースもあったらしい。(本当に浮気してたっていうことが裏であったらしいけど。笑)

その話を聞いて思ったわけですよ。
「どうして、大人になってまでそんないじめができるくらい、不幸になってしまったんだろう?」って。
だって、小学校受験ができる子供の家庭だったら、それなりに経済状況も悪くないだろうってことが考えられるし、そもそも子供がいるってことは、少なくとも一度は愛したことのある男性との間に命を授かって、家庭を築いてってことを達成できているわけでしょ?
その形をひとつの夢として抱いてる女の子だって少なくないはずじゃん。(わたしは主婦は絶対いやだけど。)

それなのに、どうして彼女たちはそんなに不幸になってしまったんだろう、と、
いじめそのものよりも、彼女たちをいじめに駆り立てる不幸にわたしは恐れをなしたのでした。


不幸には絶対なりたくない。絶対しあわせになりたい。


こんな調子で、毎日人や自分の不幸・しあわせを前にして頭抱えてるわけ。
そうやってしあわせってなんだろう、って、しあわせになりたい、って思えば思うほど、
自分が窒息していくのもわかるし、しあわせそのものから遠ざかっているってのもわかってる。
はっきり言って、しあわせっていう言葉自体を手放した方が、きっと、よっぽどしあわせ。

それでもその言葉に固執するのは、やっぱり、しあわせを知ってるからじゃないかなーと思う。
しあわせというレッテルの下にあるものが、本当にしあわせかどうかという議論はここでは不要。
わたしはやっぱり、結果として欠けている状態へと導かれるとしても、この「しあわせを知っている」という感覚は、なにものにも替えられないしあわせだと感じるのでした。



論理矛盾?



おわり。