September 22, 2013

Beats of the Southern Wild


"The whole universe depends on everything fitting together just right. If one piece busts, even the smallest piece... the entire universe will get busted."

"I see that I am a little piece of a big, big universe, and that makes it right."

July 12, 2013

LIFE OF PI



"And so it goes with God."


- Film "Life of Pi" (2012)


February 18, 2013

I JUST WANT YOU TO BE HAPPY




若者が諦めるづける社会ほど悲しいものはないと思う。

日本に帰りたくないという気持ちが日に日に強くなってるような気がするのだけど、
それはまさに無い物ねだりというもので。
来た当初は日本に帰りたいと思ってても口に出して言えなかった日が多かったような気がするのに、
今ではあと何日しかない、あと何日しかない、と寂しいカウントダウンを繰り返している。

帰りたくないのは、いつまでも時間を引きのばしていたいからだろう。

それでもやっぱり日本に帰りたいかな、とも思うのは、
この国が好きで、愛着もあるけれど、コミットする忠誠心はないからだと思う。
または外国人としての自分を意識しつづけるのに疲れたからかもしれない。
何かしたい、社会を変えたいと思ったとき、
その社会がアメリカ社会であることは、自分の中では今のところはないのだと思う。
大丈夫かな、これからどんな世の中になって行くのかな、と、心配になるのはやはり日本だから。
これはわたしのアイデンティティの問題なのだろうか。
愛国的な人間として左寄りのみなさまに白い目で見られるのだろうか。
手の届くところからはじめたいというだけの思いなのです、と説明したところで、バカにされるだけなのだろうか。

ナウシカ。

ナウシカがまるですべての生き物たちの母親であるかのようになるとき、
彼女はすべての生き物たちの一生に自分が責任を負っていることを自覚しているんだよね。
誰かが生まれ、誰かが死に、誰かが悲しみ、誰かが喜ぶ。
世界の一挙一動に関係している自分を彼女は見てる。
自分の選択が彼らの今を変えることを知ってる。

それが民主主義のあるべき姿だよね。
だれもが政治とか社会の出来事に自分がどこかで加担していることを自覚してる。
だれかが責任をとり、決断をしなきゃいけないのは当然だけど、
だからと言って自分が無関係でいられることはなにもない。
なんかさ、政治学とかやってるとさ、ぜんぶこんな物差しで考えはじめちゃうのがちょっと寂しいけど、
でもそういうことだと思うんだよね、ナウシカって。

だからわたしは脳みその端っこの方にナウシカを住まわせて歩いてる。

安倍さんきらいとか、石破さんこわいとか、色んなこと言っても、
結局彼らの決断が社会を変えるのであれば、それにはわたしも責任があるよね。
誰かのせいにしつづけていれば、誰かがどこかでなんとかしてくれるってのは間違いだよね。
アメリカがどうなってもいいわけじゃないんだよ。
ただ、日本がどうにかなったら嫌だってだけなんだよ。

別にどこだってよかったと思うんだ、結局のところ。
これは選択の結果だと思いたい、とりあえずのところは。
日本の教育がうまくいってるなら、別にそれでもいいや。
帰るところってのは誰にだって必要だよね。

若者が諦めるづける社会ほど悲しいものはないと思う。
いまの日本はそんなところだと思う。
カナシイ。
カナシイ。



February 8, 2013

WATCHMEN



"I don't think your life's meaningless."

"...You don't?"

"No. I changed my mind."

"But why?"

"Thermodynamic miracles ... events with odds against so astronomical they're effectively impossible, like oxygen spontaneously becoming gold. I long to observe such a thing. 
And yet, in each human coupling a thousand million sperm vie for a single egg. Multiply those odds by countless generations, against the odds of your ancestors being alive; meeting; siring this precise son; that exact daughter ... 
until your mother loves a man she has every reason to hate, and of that union, of the thousand million children competing for fertilization, it was you, only you, that emerged. To distill so specific a form from that chaos of improbability, like turning air to gold ... that is the crowning unlikelihood.
The thermodynamic miracle."

"But ... if me, my birth, if that's a thermodynamic miracle ... I mean you could say that about anybody in the world!"

"Yes. Anybody in the world. 
... But the world is so full of people, so crowded with these miracles that they become commonplace and we forget ... I forget.
We gaze continually at the world and it grows dull in our perceptions. Yet seen from another's vantage  point, as if new, it may still take the breath away.
Come ... dry your eyes, for you are life rarer than a quark and unpredictable beyond the dreams of Heisenberg; the clay in which the forces that shape all things leaves their fingerprints most clearly.
Dry your eyes ... and let's go home."




- Alan Moore & Dave Gibbons "Watchmen"





VIGILANTISM



今学期の授業の中にサイエンスフィクションをひたすら読んでる授業がある。その名もInterstellar Politics。これが結構おもしろい。簡単に言うと、SF小説や映画・ドラマを「政治理論の思考実験」として分析するのが目的、らしい。ぜんぜん簡単じゃないじゃんってつっこみたくなるよね。でもわかりやすい例があるのです。

例えばね、こないだ読んだThe Player of Gamesっていう小説では、みんなが豊かで、自由で、満ち足りていて、毎日遊んだり、うわさ話したり、芸術をたしなんだりばかりしてる国と、打って変わって奴隷や暴力が横行する暴虐非道の帝国が出てくる。で、前者の豊かな方の国は、技術的にも帝国を遥かに上回ってるし、お金にも資源にも困っていないのだけど、後者の帝国が「倫理的に間違っているから」という理由だけでその帝国を陥落させてしまうの。

これを政治学的観点から考えると、他国への人道的介入は本質的に正しいのか否かということを問うために絶好な条件だと考えられるわけ。なぜなら、現実の世界ではさ、例えばアメリカがイラクのフセイン政権は人権を否定している、民主主義をあの国の人々に与えなければならない!なんて、きれいごとを言って侵略しても、実際脇では石油の権利を獲得したり、国の再建を自国の企業に委託したりしてお金を得てるわけじゃん。つまり、アメリカの人道的介入は純粋にモラルにもとづいたものではなく、私利私欲にかられた介入であるから間違っている、っていう議論になったりするわけ。現実世界では、誰もが資源が足りなかったり経済が停滞してたりするから、「純粋な人道的介入」っていうのは存在し得ないわけ。

でもあの本の設定だと、豊かな国が帝国を陥落させたのは非常に「純粋な」人道的介入だと言える。後者の帝国がすごい暴力的な政治を行っていたとしても、前者の国にとっては脅威でも何でもない。帝国を倒すことによって、自分たちが得られる利益はほとんどないに等しい。そんな風に動機の純粋さが保たれていれば、人道的介入は正しいと言えるのか、それともそのような場合であっても、より力のある国が力のない国の内政に介入し、その国を崩壊させることは間違っていると言えるのか、たとえその国が国民の人権を否定していも、、ってそういう問いになってくるわけ。

だから、とてもおもしろい。どうにか意味は伝わっただろうか。(なんかすごい長くなっちゃった)

そして、今週はなんとWatchmenっていうアメコミを読んでる。全カラーの美しいマンガで、ストーリーがおもしろくておもしろくて、本当にみんなにオススメしたい!笑 とても政治的な内容で、色んな人物の話が複雑に絡み合ってる様が、なんだか手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を連想させる。(たくさんマンガを読んでるわけじゃないけど、あれは名作。)

簡単なあらすじ。
舞台は1980年代のニューヨーク。街には暴力が入り乱れ、世界は核戦争の恐怖を前に息をひそめている。ベトナム戦争に勝利したニクソン大統領は、史上初の三度目の再選をおさめたところだ。そんなある日、ひとりの外交官が殺害される。
調査の結果、その外交官はかつてコメディアンという名前でヒーローとして活躍していた人物だということが発覚する。1950年代には彼の他にも何人も、色とりどりのコスチュームを着て、ヒーローごっこをはじめた人たちがいた。世間は彼らを「ウォッチメン」と呼んだ。
一時期彼らは熱狂的な人気を誇り、自警団として活躍していたが、不運な出来事が続いた結果、政府はこのヒーローたちが活動を続けることを法律で禁じた。それ以来、ヒーローたちはまた元の普通の生活に戻っていたわけだが、コメディアンの殺害後、元ヒーローたちを狙った事件が相次ぐようになる。。。

人間の本質を問い、抑止力としての核に問いをなげかけ、リアリズム的な鋭い視線で世界を切る。ほんと、上のあらすじだけでは説明しきれないことがいっぱい。本当におもしろいの!笑

でも特におもしろいのは、アメコミヒーロー界というかアメリカ社会にすごく深く根を張ってる「自警の文化」への信仰とあこがれ。ヒーローたちに共通しているのは、みんな政府や警察をはじめとする法制度にとらわれない存在として、自分たちの手で正義を下そうとすること。映画ダークナイト・ライジングでロビンが警察をやめてバットマンのあとを継ぐことを決意するシーンなんかは明らかに象徴的。システムには限界がある。政府そのものが暴力の担い手になることもある。だから常に人々の味方で正義を追求し続けるヒーローたちはかっこよくて、信頼できる。ウォッチメンはそんな自警の文化へのアンチテーゼとしても読めると思う。

でもこの自警の文化は連邦制をしいているアメリカにおいて歴史的に長く受け継がれた者であると言える。州がそれぞれ独自の法制度をもち独立した集団として存在していたところに、連邦政府を作り上げて、その制度の中に州を組み込んだ。このエリアに関してはどちらがより強い権限を持つのか、既存の権限を連邦政府にとられやしないかなど、いつも州政府は連邦政府との力関係で政治的取引を続けてる。自分たちのことは自分たちでやる、よその大きなシステムには屈しないというメンタリティがあると言える。

でもそれは個人のレベルでも根強い。それこそが最近話題になってる銃規制問題につながってくる。憲法修正第二条で明記された銃を持つ権利をアメリカ人が未だに大事に大事にし続けてる理由はまさに、自分たちの家族は自分たちで守るという「自警の文化」から来てるのだ。文化というよりももはや信仰に近い気がする。絶対的な信頼・自信があるような気がするんだよね。

日本人としてはこの文化はやや異常な感じがする。そこには明らかに国民性の違いがある。自警を容認・奨励することは、法の支配を否定することになる。法律で罪をはかり、人を裁くプロセスを否定していることにちがいない。そして、自警の中で定義される正義は常に主観的・個人的であり、また多元的である。正義の名の下に私的な制裁を容認することになってしまうとわたしは思う。

だから銃規制問題は議論するのが難しい、アメリカの文化にヒーローと同じ文脈で根付いてしまっているから。自分たちが掲げてきた理念と現実とのねじれをアメリカはこれからどう解消していくつもりなんだろう。


(ウォッチメン読んでね!)







QUESTION




昨日について。
ジョージタウンの名門校っぷりは、現職の国務大臣やアフガニスタンの大統領が来るたびに証明される。ヒラリー・クリントン、ハーミド・カルザイ、そして昨日はパネッタ国防長官がガストンホールにやってきた。

一ヶ月に一回くらいのペースで世界的に重要な役職に就いている人物がジョージタウンに来ては、一時間くらいの講演をしてくれる。ジョージタウン卒業生の功績をたたえ、現役の学生たちにもよく学び、よく働き、彼らのあとに続くよう呼びかける。合衆国の首都、”丘の上の町”の丘の上にある大学で4年間を過ごした学生たちは、使命とも誇りともプレッシャーとも言えるものを背負って世界に出ていく。この上なく恵まれた環境だが、ここは温室ではない。

そして、この場でパネッタ国防長官に直接質問ができたのは、それこそまたとない機会だった。講演前日に日本政府が自衛隊戦艦が中国戦艦にレーダー照射されたことを発表したことに対して、どれだけ事態は深刻なのか、アメリカとしてはどういう態度をとっていくつもりなのかを問うと、次のように答えた。

「太平洋地域はアメリカにとっても世界にとっても、経済的・政治的に非常に重要な地域であり、アメリカとその同盟国はこの地域の平和を守るためにとりうる手段はすべてとるつもりだ。中国はその平和を乱すような中国であってはならず、この家族の一員にならなければならない。」

インターン業務の一環としてこの講演を傍聴していたからには、絶対に質問をとらなきゃと思って、朝早起きしたわけなんだけど、結果的にちゃんと自分の質問が出来てよかった。質問タイムに入るときには「どうしよう、あんまり国際情勢の話はしてなかったけど、こんな質問しちゃっても大丈夫かな」なんて考えて躊躇していたんだけど、向こうの列の男の子がさっと立ち上がってマイクに向かおうとしてるのを見て、「これは行かなきゃ」と思って列に並んだ。そのあとはあっという間だったような気がする。

2013年の目標は例年の「めんどくさがらない」に「びびらない」を追加したのだけれど、この日もまたあとちょっとのところでびびって絶好の機会を逃すところだった。自分がジョージタウンにいて、マイクにとても近い席に座っていて、競争相手もそんなにいない、と、これだけ条件のそろった状況にいることがどれだけ幸運な偶然かということを考えると、今あの機会を逃していたら本当にバカだったと思う。それこそ、後悔しても仕切れなかったと思う。そのために「びびらない」っていう目標を立てたはずなのに!

結局、質問の内容と事態の緊迫具合のおかげで、パネッタ長官のこたえは日本のあちこちのメディアで報道された。中でも、優しかったのはテレビ朝日。背が小さすぎてちっとも写ってないのが残念。笑 
翌日には菅官房長官も長官の発言に対してコメントしていて、どれだけ尖閣を巡る領土問題が緊迫しているかということばかりが浮き彫りになって、嬉しい反面、ただただ心配になったというのもある。

うそ。本当はとてもうれしかった。笑

でも、この幸運のほとんどは本当に「運」だったと思う。すべてはセッティングされていて、長官もわたしはただの学生だと思っていて、自分で努力したことと言ったら、マイクに近い席をとるために朝早く起きただけ。あまりに簡単すぎた気がする。だから自分の運のよさに感謝するばかり。これから社会に出て実際に報道に関わる仕事に就いたとしたら、なにかに甘えられる身分ではなくなるし、運にばかり頼ってもいられなくなる。今回は本当に運が良かっただけだと思う。

いつも思うんだよね。自分の力で成功したい、って。
ICUは本当に温室だと思うよ。世間とはちがう価値観が共有されていて、全く違う雰囲気が漂ってる。自分たちは偏差値が高い、六大学に所属してこそいないけど学力はある、卒業生たちも有名な企業に就職してる人が多い、そんなことを根拠にした自信があるばかりで、自分たちの力量を世界に試されたことが無い、というか。特にわたしなんかは受験してないから、自分の力でここまで来たんだと胸をはって言えるバックグラウンドがない。自分は成績のいい優等生としてやってきた節があるけど、本当に自分の力で社会でやっていくのか、社会に出たときに自分は本当に優秀な人材なのかということを考えると、あまり自身がない。

だから、自分の力でここまできたぞって言えるようになりたい、自分の力で成功したい、自分の力でしあわせになりたい。恵まれてきたことには感謝の気持ちでいっぱいだし、運も実力のうちというのは十分あり得ることだと思う。それでも。

まとめると、自分の質問がこれだけメディアに使われるような重要な発言につながったことはうれしい、けどあまりに簡単すぎたことに違和感がある。社会に出る日を前にして、自分が本当にただの温室育ちの甘ちゃんじゃないということに自信がない。自分の力を試したい。

日本に帰ったら、すぐに就活を始めるのでなく、自分の力をもう少し試すことに使ってみたいというのはそういうこと。でも今から始められるよね、それも。残りの留学生活・インターン業務、ばりっとびびらずにやってかなきゃと自分を戒めるばかりなんのです。


あら、まじめちゃん。


おしまい








February 5, 2013

SOCIAL MEDIA


「ツイッター中毒ですか?」と問われたら、ハイ、と答えるほかない。
「フェイスブック中毒ですか?」と問われたら、ハイ、と答えるほかない。
他にも日常的に使用しているのはタンブラー、フリッカー、グーグルプラス・・・など、なにを隠そう、ワタシもまたソーシャルメディア中毒者のひとりである。

ソーシャルメディアがどうしてここまで中毒的かということは、使ってみたことのないひとにはいまいちわからないかもしれない。だからソーシャルメディア中毒者のわたしが中毒者なりに分析してみると、それは、ソーシャルメディアで行き来しているのは「独りじゃないひとり言」であるということにつきる。

たとえばツイッターに投稿される140字は、言ってしまえばひとり言である。

 「ねむい」
 「お腹すいた」
 「つかれたー」

電車で家に帰っているとき、ひとりでご飯を作っているとき、飲み会でひっそりとトイレに行ったとき、そんな瞬間に、口に出してひとり言を言うのでなく、ツイッターに投稿する。どれだけ非生産的なことをつぶやいても、だれにも非難されることはない。なぜなら、それはアナタのひとり言だからだ。

しかし、ツイッターがソーシャルメディアである以上、吐き出された140字は常に外部へと、他者へと発信されている。自分のことをフォローしている友人のタイムラインへ流れていき、公開設定をパブリックにしていれば、赤の他人に自分のひとり言が検索されて読まれることもある。常に自分のひとり言は「独り」ではないのだ。

誰にも文句を言われる筋合いのないひとり言、しかしだれかがどこかで聞いてくれているひとり言。自分がぽつんとこぼしたため息のようなことばに、だれかが「わたしもー」「おつかれ」とことばを返してくれる。ひとり言が「独り」にならないということは、自分も「独り」ではないということなのだ。こうして作り出される絶妙な距離感が中毒性をの秘密であるのだろう。

たとえ最期のことばがひとり言であっても、ソーシャルメディアへと投げられたことばであれば、それは必ず誰かに届いている。これをステキだと思うか、カナシイと思うか、そこに時代の裂け目を見る。




—朝日新聞2012年度秋採用「ソーシャルメディア」







January 30, 2013

WATERGATE





「大義があるっていうのは救いなんだよ。」



これはインターン先の支局長のことば。
かれこれ10年以上報道記者として働いてきた支局長は、大学では社会心理学を学んでたんだって。その大学生活を通して学んだのは「人間は単純な生き物なんだ」ってこと。

例えば映画「es」にもなった囚人と看守の実験。
囚人と看守の役割を振り分けられた被験者たちが何週間か刑務所でその役割に則って生活していると、いつしかみんな自分の役割に従った行動をするようになってしまうってやつ。囚人役の人と看守役の人との間に本来力関係は一切ない、というかむしろそれまでお互いのことなんも知らない上に、全く罪も犯していなければ、ぜんぜん関係ない仕事とかしてるひとたちなのに、その役割を担わされてその環境に放り込まれると、その役割を果たしてしまうっていう実験。

例えば電気ショックの実験。その名もミルグラム実験
これはまず教師役の被験者と生徒役のサクラを用意して、教師に生徒に問題を出すように指示する。で、生徒が答えを間違えるたびに教師は生徒に電気ショックを与えるように指示して、さらに、間違えるたびにその電気ショックのボルトをどんどんあげさせるっていうもの。実際生徒役はサクラだから本当に電気ショックを受けてる訳じゃないんだけど、ボルト数が上がっていくごとにどんどん苦痛が増していく演技をする。
75ボルトでは不快感をつぶやいて、120ボルトでは大声で苦痛を訴えて、150ボルトでは絶叫して、270ボルトでは苦悶の金切り声をあげて、300ボルトでは実験中止を求めて叫びまくって、350ボルトでは無反応になる。

実験の結果、60%以上の人が用意されていた最大の450ボルトまで上げてしまったんだって。つまり、生徒役のひとが自分が電気ショックを与えたせいで死んでしまったかもしれないということを自覚していても、「自分は与えられた役割をこなしているだけだ」「自分に責任は無い」と考えて人間は役割を全うしてしまうんだということ。

この実験はナチス政権時代にユダヤ人を強制収容所に輸送する責任者だったアドルフ・アイヒマンの名前をとってアイヒマンテストとも呼ばれているんだって。
アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか?それとも、家族の誕生日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか?」

答えはどうやら、わたしでもあなたでもアイヒマンの境遇にあったら、大量のユダヤ人を死に送り込んでいたかもしれないということらしい。

「だからね、人間は単純な生き物なんだよ。与えられた役割とか生活してる環境によって、行動を大きく左右されてしまう。現代だってそうでしょ、どっかの会社で働いてたりしててさ、お客が損するってことがわかってても、その商品を売り込むのが自分の仕事だから、自分は会社の命令に従ってるだけだからって、商品を売りつけたりする訳じゃん。人間は与えられた役割に弱いんだよ。」

「だからさ、どんなところに就職して、どんな役割を与えられるかっていうのは大事なんだよね。その役割を与えられた結果、自分の行動が規定されてしまうんだから。だから就活もバカにならないんだよ(笑)自分の今後何十年の人格をそこで決定されてしまう可能性だってあるわけだからね。」



入社してからずっと報道をやってる支局長は、報道は特権的な職種だと思うという。
たとえばバラエティなんかは視聴率がとれなかったら、価値はゼロになってしまう。

報道はそうではない。
報道には視聴率をとらなければならないっていうプレッシャー、言い換えれば会社から与えられた「役割」を超える「大義」がある、と。世の中にニュースを伝えるという大義があることによって、その厳しいプレッシャーから逃れられている、と。

「世の中そんなに甘くないからね、大義がどうのこうのとか言ってられるのはごく一部の人間だけだよ。」

メディアが大義を果たすことを目的とした純潔無垢な正義感にかられた職であるとは思えないけど、でもやっぱり自分が記者に憧れて、将来記者になりたいと思ってた理由を確信に変えてもらったような気がする。




大義とか言えちゃう仕事とか、やっぱりかっこいいじゃんね。





最後に、写真はウォーターゲート事件の立役者であるウッドワードとバーンスタイン。
記者の大義とか考えてると自然と思い浮かぶのがこのふたり。ニクソンの不正を暴いて、辞職にまで追い込んだ敏腕記者。そのウッドワードの直属アシスタントだった人にジャーナリズムを教わってるわたしはほんとラッキー。。。

早く戦える人間になりたいと思った。



January 14, 2013

GUN CONTROL


2012年12月14日。
コネチカット州サンデフィック小学校にて銃乱射事件が起きた。
同小学校に通う児童20人を含む26人が亡くなり、事件の犯人であるアダム・ランザもほどなく現場で自殺した。今日で事件発生から一ヶ月を迎える。
(事件当日の詳細なタイムラインはこちらで)

事件直後の保護者へのインタビュー

まだ幼い子供たちが20人。彼らを守ろうとした教職員たちが6人。
彼らの死を前にして、アメリカ中の人々が怒りを爆発させた。
オバマ政権は、長年論争が繰り広げられてきたものの、大きな変革を起こすことは非常に困難とされてきた銃規制問題とどう向き合うのかを問われている。

銃の所持が違法とされている日本で生まれ育った身からすると、これほど凄惨な事件が起きたにも関わらず、どうして政党間で合意できないだけでなく、国民の過半数のサポートを得ることもできないのかがいまいちピンと来ないんだよね。銃さえなければこんな事件は起きなかったじゃん!と言いたくなるのだけど、アメリカではそうもいかないのです。


①憲法修正第二条・権利章典
まず一番の問題は、銃を持つ権利は、アメリカの憲法修正第二条にて「武装権 ("The Right to Keep and Bear Arms")」という名の下ばっちり明記されていること。
この修正第二条は1791年に信教・言論の自由、残虐な刑罰の禁止などを明記した他9条とともに権利章典の一部として憲法に追加されたものでした。つまり、人民が銃を持ち武装する権利は、基本的人権の一部として憲法に守られてきたということ。
だから銃規制を強化しようとすることは現段階では憲法違反になりかねないし、本格的な改革を行うためには憲法改正にまで踏み切らなきゃいけないかもしれないのです。



②世論
そしてこの憲法のもと銃をもって生活してきた人たちは、この事件を前にしても銃の所持を禁止するような改革には断固反対。Pew Research Center for the People and the Pressが行った世論調査によると、銃規制賛成派と反対派で世論はまっぷたつ。


今回の事件が起きた原因についても、殺人犯が銃を持つからいけないのであって、一般的に銃を所持することを禁止することは憲法違反だという主張をする人がたくさん。銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのだという論理。
さらには、学校の警備員や教師たちが銃を所持してさえいれば、殺人犯が児童たちを殺し始める前に殺人犯をやっつけることができたのになどと主張する人たちも。つまりは、教師たちも武装すれば、無惨に殺されるのではなく抵抗できたはずだと言う議論。学校を文字通り戦場にしたいのかと思わざるを得ないけど、これも多数の人にサポートされたかなり有力な主張なのです。


NRA: 全米ライフ
全米ライフル協会(wiki)はその名の通り、銃大好き人間たちの愛好会・・・という名の圧力団体。さきほどあげた「銃が人を殺すのではなく・・・」というのはまさしくこちらNRAのスローガン。全米で400万人の会員を持ち、共和党にたっくさん政治支援金を出してる巨大な団体。もちろん銃規制には反対。
だから、それこそ警備員を武装させろとか、事件をビデオゲーム業界のせいにして「暴力の種を蒔く退廃した闇の業界」と呼んでおきながら(link)、自分たちもシューティングゲームを発表するとか(link)やりたい放題。共和党に大量にお金を出してる限り、彼らの機嫌を損ねるような政策は議会を通るのは難しいといえるのではないか。


④精神医療・保険制度
ここからがさらにややこしくなるところ。
事件後、現場で自殺した犯人のアダム・ランザの精神状態が議論の焦点に。彼は過去にアスペルガーとして診断された経歴があり、精神的に不安定な状態に陥ることが多々あったという証言がなされた。
これが報道されることによって、アスペルガーや自閉症に対する間違った理解が広まることが恐れられ、自閉症障がい者の権利を主張する団体などが、自閉症やアスペルガーは精神病ではないと強調する運動を始めた。それでも、彼らに対する反発は広がりつつある。

また、事件の焦点は銃の所持だけでなく、アメリカの精神医療や障がい者医療にあるのではないかということも公に議論されるようになった。その中でも"I am Adam Lanza's Mother"というタイトルの記事が注目を集めた。その記事では、筆者が自身のADHDまたはアスペルガーの疑いのある息子について書いていて、読んでるだけで胸が苦しくなってくる。13歳の息子がナイフを取り出して筆者を殺し、その後自分も自殺すると迫った日のこと。その同じ息子が、薬を飲んで落ち着いてるときは、かわいらしい、ひとりの少年に過ぎないこと。彼がもっと成長して体も大きくなり、自分の手には負えなくなったとき、果たして彼はアダム・ランザと同じような道を歩んでしまうのかと考えると眠れなくなること。彼女の文章はひとりの母親の悲痛な叫びである。

結果として、精神的に不安定な傾向を見せている人物には銃を販売しないという形で規制を行えばいいのではないかという議論もされているが、アダム・ランザの場合、彼が使った銃は彼自身ではなく彼の母親(事件当日、ランザが学校に襲撃に行く前に自宅で銃殺)のものだったため、これが完全な予防策になるとは言いがたい。



以上の問題の他に、さらには州ごとの規制とそれにどれだけ連邦政府が干渉することが許されるべきか、というアメリカおなじみの問題もあれば、事件そのものがオバマ政権による銃規制の議論を起こすための陰謀だったのではないかなんて言い始める人もいて、ややこしい。アメリカ、そこまでして銃を持っていたいのか、と。

解決すべき問題は山ほどあるけど、ひとつ思うのは、暴力を阻止するためにはそれ以上に強い暴力を持たざるを得ないという考え方自体が幻想なのではないかということ。それにいつまで経ったら気付けるのか。何人の人が亡くなったら気付けるのか。


21世紀アメリカ、国外でも国内でも、戦争をするのをやめる日はいつ来るのか。


銃規制問題について長年取り組んできた副大統領ジョー・バイデンによる大統領への正式な提言が明日行われる予定。オバマ大統領はありとあらゆる問題に対して反対姿勢しか見せてこなかった共和党に対してかなり強固な態度で接している今日この頃。
銃規制問題についても反対を押し切って、抜本的改革を行えるか、期待したいところ。













January 10, 2013

RESOLUTIONS


Akemashite omedeto!
Man, 2013 just doesn't sound right.

But I'm pretty impressed by the fact that we got through 2012 and past the horrific apocalypse prediction by our ancient Mayan friends. 
I guess the next big question will be what comes next? What is to become of the world of post-apocalypse?
Are we going to start another count down to the next possible end of the world?
Is this going to be people longing for the next time they can let go and have fun under the excuse of having little time left on Earth? 
Our world praises development to the point Steve Jobs is divine. But it seems that all we want to do is just step backwards into the warm arms of chaotic nothingness where it all began. Then it will be "There shall be light" all over again. 

Although it is cool if the world, after all these false predictions, finally ended during our lifetime, I plan to live because I have tons of resolutions. 
Tons and tons. 
And writing a blog once everyday is one of them. This is why I am blabbering on about these nonsense for the first time in maybe three months? I do plan to be productive next time but this time it's just me, talking about nothing.

My second resolution is, as always, "mendokusagaranai".
People chuckle when they hear this; those people don't realize how very difficult but important this resolution is. I know I would be as twice as productive and efficient if I wasn't held down by this little tiny notion that just pops in my head every time I remember something I have to do.
I would meet so many people. I would get so many readings done. 
Mendokusagaranai. It's so difficult I have it in my resolutions every single year since I entered uni.

Third one: "bibiranai".
This one's new. Just don't freak out. Talk to people. Take more risks. Be confident about yourself with no reason to support you. Just be. Don't be a chicken. 

Fourth one: "be deliberately impolite".
In Japanese standards I'm sure I'm not the most polite person in the world. My mom doesn't even trust me behaving properly in front of other people. But in American standards, I'm very Japanese and I'm very polite --to the extent that it doesn't even make sense.
Being polite always helps --NOT. Being polite keeps you from stepping in to other people's comfort zone before they step into yours. It keeps you from something you could've had if you didn't hesitate thinking whether it would be offensive in any possible way. Being polite doesn't get you far if you ever want to become a journalist.
So be impolite, but deliberately and carefully. There are lines you shouldn't cross.

I keep coming up with these new resolutions everyday. Or are they more like wishes rather than goals?
But the number of resolutions only reflect the high hopes I have for 2013. This is the time I have to game it up and make decisions and take things to my own hands. 

Career.
Education.
Family.
Relationships.


All I know now is that I want it all. 2013, come at me.