February 8, 2013

VIGILANTISM



今学期の授業の中にサイエンスフィクションをひたすら読んでる授業がある。その名もInterstellar Politics。これが結構おもしろい。簡単に言うと、SF小説や映画・ドラマを「政治理論の思考実験」として分析するのが目的、らしい。ぜんぜん簡単じゃないじゃんってつっこみたくなるよね。でもわかりやすい例があるのです。

例えばね、こないだ読んだThe Player of Gamesっていう小説では、みんなが豊かで、自由で、満ち足りていて、毎日遊んだり、うわさ話したり、芸術をたしなんだりばかりしてる国と、打って変わって奴隷や暴力が横行する暴虐非道の帝国が出てくる。で、前者の豊かな方の国は、技術的にも帝国を遥かに上回ってるし、お金にも資源にも困っていないのだけど、後者の帝国が「倫理的に間違っているから」という理由だけでその帝国を陥落させてしまうの。

これを政治学的観点から考えると、他国への人道的介入は本質的に正しいのか否かということを問うために絶好な条件だと考えられるわけ。なぜなら、現実の世界ではさ、例えばアメリカがイラクのフセイン政権は人権を否定している、民主主義をあの国の人々に与えなければならない!なんて、きれいごとを言って侵略しても、実際脇では石油の権利を獲得したり、国の再建を自国の企業に委託したりしてお金を得てるわけじゃん。つまり、アメリカの人道的介入は純粋にモラルにもとづいたものではなく、私利私欲にかられた介入であるから間違っている、っていう議論になったりするわけ。現実世界では、誰もが資源が足りなかったり経済が停滞してたりするから、「純粋な人道的介入」っていうのは存在し得ないわけ。

でもあの本の設定だと、豊かな国が帝国を陥落させたのは非常に「純粋な」人道的介入だと言える。後者の帝国がすごい暴力的な政治を行っていたとしても、前者の国にとっては脅威でも何でもない。帝国を倒すことによって、自分たちが得られる利益はほとんどないに等しい。そんな風に動機の純粋さが保たれていれば、人道的介入は正しいと言えるのか、それともそのような場合であっても、より力のある国が力のない国の内政に介入し、その国を崩壊させることは間違っていると言えるのか、たとえその国が国民の人権を否定していも、、ってそういう問いになってくるわけ。

だから、とてもおもしろい。どうにか意味は伝わっただろうか。(なんかすごい長くなっちゃった)

そして、今週はなんとWatchmenっていうアメコミを読んでる。全カラーの美しいマンガで、ストーリーがおもしろくておもしろくて、本当にみんなにオススメしたい!笑 とても政治的な内容で、色んな人物の話が複雑に絡み合ってる様が、なんだか手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を連想させる。(たくさんマンガを読んでるわけじゃないけど、あれは名作。)

簡単なあらすじ。
舞台は1980年代のニューヨーク。街には暴力が入り乱れ、世界は核戦争の恐怖を前に息をひそめている。ベトナム戦争に勝利したニクソン大統領は、史上初の三度目の再選をおさめたところだ。そんなある日、ひとりの外交官が殺害される。
調査の結果、その外交官はかつてコメディアンという名前でヒーローとして活躍していた人物だということが発覚する。1950年代には彼の他にも何人も、色とりどりのコスチュームを着て、ヒーローごっこをはじめた人たちがいた。世間は彼らを「ウォッチメン」と呼んだ。
一時期彼らは熱狂的な人気を誇り、自警団として活躍していたが、不運な出来事が続いた結果、政府はこのヒーローたちが活動を続けることを法律で禁じた。それ以来、ヒーローたちはまた元の普通の生活に戻っていたわけだが、コメディアンの殺害後、元ヒーローたちを狙った事件が相次ぐようになる。。。

人間の本質を問い、抑止力としての核に問いをなげかけ、リアリズム的な鋭い視線で世界を切る。ほんと、上のあらすじだけでは説明しきれないことがいっぱい。本当におもしろいの!笑

でも特におもしろいのは、アメコミヒーロー界というかアメリカ社会にすごく深く根を張ってる「自警の文化」への信仰とあこがれ。ヒーローたちに共通しているのは、みんな政府や警察をはじめとする法制度にとらわれない存在として、自分たちの手で正義を下そうとすること。映画ダークナイト・ライジングでロビンが警察をやめてバットマンのあとを継ぐことを決意するシーンなんかは明らかに象徴的。システムには限界がある。政府そのものが暴力の担い手になることもある。だから常に人々の味方で正義を追求し続けるヒーローたちはかっこよくて、信頼できる。ウォッチメンはそんな自警の文化へのアンチテーゼとしても読めると思う。

でもこの自警の文化は連邦制をしいているアメリカにおいて歴史的に長く受け継がれた者であると言える。州がそれぞれ独自の法制度をもち独立した集団として存在していたところに、連邦政府を作り上げて、その制度の中に州を組み込んだ。このエリアに関してはどちらがより強い権限を持つのか、既存の権限を連邦政府にとられやしないかなど、いつも州政府は連邦政府との力関係で政治的取引を続けてる。自分たちのことは自分たちでやる、よその大きなシステムには屈しないというメンタリティがあると言える。

でもそれは個人のレベルでも根強い。それこそが最近話題になってる銃規制問題につながってくる。憲法修正第二条で明記された銃を持つ権利をアメリカ人が未だに大事に大事にし続けてる理由はまさに、自分たちの家族は自分たちで守るという「自警の文化」から来てるのだ。文化というよりももはや信仰に近い気がする。絶対的な信頼・自信があるような気がするんだよね。

日本人としてはこの文化はやや異常な感じがする。そこには明らかに国民性の違いがある。自警を容認・奨励することは、法の支配を否定することになる。法律で罪をはかり、人を裁くプロセスを否定していることにちがいない。そして、自警の中で定義される正義は常に主観的・個人的であり、また多元的である。正義の名の下に私的な制裁を容認することになってしまうとわたしは思う。

だから銃規制問題は議論するのが難しい、アメリカの文化にヒーローと同じ文脈で根付いてしまっているから。自分たちが掲げてきた理念と現実とのねじれをアメリカはこれからどう解消していくつもりなんだろう。


(ウォッチメン読んでね!)







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