-Film "The Fall" (2006)
June 30, 2012
June 29, 2012
VIOLENCE
去年の夏、わたしは「日本は変わる」って本気で思ってた。
3.11と福島原子力発電所の事故を受けて、日本は現代の社会経済の限界を見た。
そのどす黒い吐息に触れた。
TwitterをはじめとするSNSでは、今まで見たことないほど多様な価値観であふれた。
恐怖と不安に煽られて、今まで惰性の中に生きてきた人たちがむくむく起き出してくる気配をあちこちで感じた。
だから日本は変わるって思った。そして、わたしはなにがなんでも、それを目撃したかった。
今日は金曜日。
近頃金曜日の夜といえば、首相官邸前の大飯原発再稼働反対デモが大騒ぎだ。
毎週毎週継続的にやってきたおかげで、運動はどんどん拡大し、今日は20万人近い人数が集まったらしい。
"社会科見学”と称して参加していた友達によると、「今まで教科書でしか見たことのなかった”民意”なるものの存在をありありと見せつけられた」そうだ。
では、日本は民意で変わるのか。
わたしも去年の六月に、反原発デモに参加した。
3.11からちょうど3ヶ月後の6月11日だった。
何も書いてないスケッチボードとオレンジ色のマーカー、一眼を首からぶら下げて、リュックの中にはハンディカムまで入れて出かけた。
ひとりでふらっと出かけた割には、準備周到な目撃者だった。
着いてみると、すでに公園には200人くらいの人が集まっていて、みな思い思いの言葉が書かれたボードをやパネルを持っていた。
あちこちで風船やリボンが配られて、公園の中央ではミュージシャンがなにやら聞いたことのない曲を熱唱してた。しかも次から次へといろんな人が歌う。演奏する。
ついに行進が始まり、気づいてみるとわたしはDJトラックの真後ろで歩いていた。
その結果、新宿の町を練り歩いた3時間あまりの間、ずっと音楽に合わせて踊ったり、「
原発反対!」って誰かが音頭をとるのにあわせて叫んだり、愉快などんちゃんさわぎを続けた。
デモは、掲げられた言葉の語調が激しいだけで、あとはお祭りのようだった。
あの日何度も何度も「飲まれないようにしなきゃ」って思ったのを覚えてる。
デモの空気を吸いにきただけなんだから、自分はまだ中立でいたいんだから、って思って、冷静になろうと自分にいろいろ言い聞かせてみた。
右手のハンディカムで周りの人たちの顔を撮影して、左手では適当に写真を撮りまくって。その記録の作業に専念しなきゃ、って思ったりもした。
それでも、だめだった。
初夏の日差しの中、アスファルトからもとなりの人からも熱気が跳ね返ってくる。
音楽と叫び声で頭がいっぱいになる。自分ののども枯れてくる。
初めてのデモに、わたしは思いっきり感動してしまった。
それ以来、まだデモには行っていない。
そして、未だに原発に関する判断を避けている自分がいる。
デモという政治参加の方法そのものに関しても賛否両論だとは思う。
もちろん、長短ある。
ただ、ひとつ思うのは、デモは行かないとわからないけど、行くと見えなくなってしまうものだと思う。
デモに行かないで、その映像や写真だけ見ていると、どこぞの馬の骨かもわからないような人たちが集団を成して、のしのし歩いてるだけに見える。その様子を見て、怖いとか、無礼だとか、いろいろ思う人はたくさんいる。むろん、わたしだってその一人だと思う。
その場に行かないと、わたしが飲まれてしまうと思ったあの空気を吸うことができないのだ。
だから行かないと絶対わからない。
烏合の衆に見える人たちのひとりひとりがどれだけ真剣に、必死に、楽しそうに、声を上げてるのかは、行かないとわからない。
ただ、その反面、デモに来てしまったとなると、もう後は、隣で叫んでる人の顔しか見えなくなる。
人数が増えればなおのこと。
今何人いるのかもわからない。主催者が誰かもわからない。先頭なんてものが存在するのかすらもよくわからない。
ただ、あなたがいて、わたしがいて、みんながいる、そしてみんな一つの方向に向かって歩いている、というそれだけに集約されてしまう。
その盲目さを人は非難するのだと思う。
わたしは去年確信していたほど、日本が変わることを今は信じられない。
一年間の間、なにも変わらなさすぎたのかもしれない。
もしくはわたしが、心地よい惰性の中に舞い戻ってしまったからかもしれない。
でも、何かが変わるとしたら、それを変えるのは人でしかないと思う。
人が変わるとしたら、それを変えるのは人だから。
よって、世界を変えるのは、わたしたちであって、それ以外に方法はないと思う。
そうやって、ちょっとずつ人間フレンドリーな社会へ。
ねむい。
June 10, 2012
PETER PAN
最近ずっと気になっていることがある。
自分はおとななのか、それともまだまだ子供なのかということである。
双方の中間地点にいるんでしょ、と言われれば、まあそりゃそうだ、と言いたくなるし、
誰かに扶養されてる間は子供でしょ、って言われても、まあそうだねえ、と言ってしまうし、
永遠に子供のこころでいられたら最高じゃない?、みたいなこと言われると、ふーん。。(別に)ってなるし、
はっきり言って、自分が何を疑問に思っているのかよくわからないのだけど、
とにかく気になる。
自分はおとななのか、それとも子供なのか。
いや、もっと正確に言うと、自分の子供時代がもう終わってしまってはいないのか、ということが気になる。
まだ子供を標榜しててもいいのか、と、不安になる。
おとなと子供といえば。
某学生映画祭の運営委員をちょっとばかしやらせてもらっていたころ、
他の委員の人たちが協賛企業や映画館の社員の人たちのことを「おとな」と呼んでいたのが、そのときすごく不思議で、すごく印象的だった。
「社員の方」 とか「スタッフさん」とか呼び方は、なんでも良かったと思うんだけど、
それを「おとなたち」と呼んでいたのが、なんとも言えない幼い敵意を感じた気がした。
ピーターパンがフック船長相手にぶんぶんふりまわす、あのしなやかに風を切る剣みたいな。
そんな乱暴さと軽やかな憎しみが混ぜ合わさった表現だった。
もしくは、確固たる決意の表れとも言える気がする。
学生だからってばかにされるような自分たちじゃないぞ、って思っての「おとな」だったんだろうな、と今なら思えるけど、当時はそのむきだしのプライドみたいなものが気持ち悪かった。
はたまたおとなと子供といえば。
こないだ友達が、その子の友達が浮気したり、浮気相手の子供を妊娠したり、そのことが彼氏にばれたりした修羅場のどろどろ話をしてくれた。
なんともセンセーショナルな話で、こんなこともまた現実にあるのかーと、映画やテレビでばかりそういうものを摂取していたわたしは、恐れおののくとともになんだか感心した。
そんなことをやってのける女の子と同い年かー自分は、(へぼいなわたし)と。
でも、自分はそんな思いしたくないなー、
しかも自分の近しい友達がそんなことしてるの見たらあんまいい気分じゃないだろうなー、とか思って、
「いつまでも、ああーあの二人付き合ってるんだーかわいいねーくらいの恋愛や恋ばながしたい」と言ったら、
その友達には、「いつまでも中高生みたいな恋愛がしたいってこと?」と苦笑いで言われた。
なるほど、わたしの望む恋愛は中高生レベルだと、そういうことですか。笑
でもそう言われたら、びっくりするくらい納得した。
下心とか性欲とか色気とか、そういうものと無縁でいたいとでもいうのか、と。
無縁でいたい、と望むふりをすることによって、純粋ぶろうとでもしてるのかもしれない、と思った。
わたしは偽善的になる傾向がある。
とにかく。
自分と同い年のひとたちがさ、
そうやっていっちょまえに浮気したり、ワンチャン(最近覚えた)したり、子供産んだり、仕事したり、はたまたクビになったり、生活に困ったり、毎日に飽き飽きしたりしてる中、
自分は大学に通って、留学にも行って、友達と遊んで、彼氏とも遊んで、やりたくないことはやらないし、好きなことは好きなだけやるし、そうやってのびのび生活してる。
まだまだ自分は大人ではないぞ、と、<子供>っていうレッテル振りかざして、それこそピーターパンみたいに色んなもの切り捨てまくって、好き勝手にしてる。
子供ほど残酷な生き物はいなかったりする。
でも、実は気付いたらもう自分は子供ではなくて、もうおとなで、本当はこんな生活許されてなくて、目をぐいぐいこすってよく周りを見てみたら、よその人たちは本当にもう大人になってしまっていて、自分を白い目で見ているのではないかと。
そんなことを考えたりする。
わたしはなにかを大きく誤解しているかもしれない、と。
自分が思っているよりもはるかに、大人の方に近いのかもしれない、と。
そして、もし自分がもう大人になってしまっているのだとしたら、手放さなきゃいけないものがたくさんある気がする。
その切なさと不安を、ばかばかしいものと思われてもしかたがない。
こんなことを考えてるだけで子供だと言われても、それもまた、しかたがない。
自分が丸っきり子供だとは、もちろん思ってないんだけどね。
でも、丸っきりおとなだとも思えないんだよね。
そうやって、中間地点にいる自分を意識すると同時に、もうどちらでもなくなってしまって、でもどちらかにしかなれない自分を感じる。
自分がなにかってことがわからないことに不安を感じたっていいじゃないか!とケンカを売ってみたくもなる。
要はね、
一生子供でいたいのではなく、気付かぬうちに大人になってはいたくないだけ。
ピーターパンが、ついに剣を地面に置くときのからんっていう乾いた音を、聞き逃すのがこわいの。
だから、そのとき自分が手放すことになるであろうものを握りしめ、じっと聞き耳を立てる。
もうすでに聞き逃していなければの話だけど。
June 9, 2012
BELLE ÉPINE
Belle épine.
美しき棘。
去年、フランス映画祭で観た作品。
母親を亡くした少女が、独りで大人になろうとあがき、傷つき、葛藤する話。恋もする。
最後は、彼女がすっとベランダに出て、自分のものではない補聴器を耳に入れる。
そして、そっと目を閉じて、遠くの音に耳をすます。
そのエンディングシーンがとても印象的で、今日またふと思い出した。
心臓がきゅっとちぢむような切なさと、 風を顔に受けるようなさわやかさを覚える。
監督は上映後、「生きることは、耳を傾けることだと思うのです」と言っていた。
その言葉もまた、心に残っている。
「世界に耳を傾ける」
なんてすてきなことばなんだろう。
June 1, 2012
BIRTH
将来の話。
わたしは一応記者になりたいってことで、
大学では政治学を専攻して、
留学先ではジャーナリズム学んで、
できればこの夏インターンとかもやって、って考えてるわけなんだけど、
どう考えても記者っていう仕事が自分に向いてるとは思えない。
なんてったって、わたし、怠け者だから。
ゆっくり起きる朝がしあわせ~~~とか言ってるタイプの人間だから。
がつがつネタとってきて、人蹴落としながら出世したりできるのか、心配。
最近は、それなら雑誌のライターとかがいいな。。。とか、思ったりもしてる。
でもまあ、そういうことを判断してしまうにはまだ早いし、
それに今日6月1日は、2014年卒マイナビ・リクナビサイトのオープン日だったから、
わたしもきちんと波に乗って、どっちも登録してインターンとかもちらほら見てたわけ。
で、「アナタの人格分析テスト☆」みたいのもやってみたら、記者の適正は76%だった。
まあまあの数字、、、と、前向きに捉えた。
編集は82%。
一番向いてるらしい適正98%の仕事はスーパーバイザーだった。
スーパーバイザーって職種っていうのか。。。?(役職じゃないの。。。?)
まあそんなこんなで、わたしは社会に出る準備をしている。
色んな不安を抱えながら、ぬるぬるとね。
そうやってあーだこーだと文句を垂れ流しながら、
世の中の大学三年生の大半が、社会を見据え始める、この6月1日でした。
わたしたちの学生生活も、あと半分弱っすね。
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